邪馬台国は太陽暦で農作業していた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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邪馬台国の国民は農業用の太陽暦を使っていた。すなわち春夏秋冬で2年と言う2倍暦であった。女王国の王、すなわち卑弥呼は太陽暦に基づいて祭祀を行っていた。

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卑弥呼の鏡、365日の刻みがある(参考)

ただし、6世紀から採用した百済の暦は太陰暦であった。


参考



2  倭人はその俗、正歳四時を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀となす。つまり、倭人は春と秋でそれぞれ1年と数えており、これを「春秋二倍暦」と言う。春から秋、つまり田植えから稲刈りまでを一年、そこから次の春までの冬を一年と勘定して、一年間に二年あるという古代中国に始まる死生観である。これが3世紀頃の古代日本人の通年観念だった、ということになる。

ここから日本の史書は最初の神武天皇から応神天皇あたりまでの天皇の年齢を二倍にする着想を得たというのが今の史学の見方である。すると100歳以上だった天皇たちの年齢は正しくは、「春秋二倍暦」を普通の「1倍暦」換算すれば 神武天皇は64歳・崇神は60歳・応神は55で崩御となって、現実的なるというわけである(参考)。


3 『魏志倭人伝』その俗、正歳四時を知らず、ただし春耕秋収を記して、年紀となす。 
正歳四時とは魏国の太陰暦のこと、すなわち、古代日本は太陽の動きを山に刻んだ暦、農業用太陽暦を利用した(参考)。


4  古代日本の暦法は三世紀の「魏志倭人伝」によると「其俗正歳・四時を知らず。坦々春耕秋収を記して年紀と為すのみ」とあります。

本居宣長の「真暦
考」にあるとおり古代日本では星や月や太陽にあまり関心を持たず、年始の月日もなく、もっぱら「自然暦」にしたがって生活していたようです。

古事記には天文に関するものがありません。ただ日本書紀には欽明天皇15年(554年)に、朝鮮半島の百済から易博士の「施徳王道良」、暦博士の「固徳王保孫」のほか医博士、薬博士が渡来したという記述があります。推古天皇10年(602年)には百済から「観勒」という僧が来日して、天皇に暦の本、天文地理の本、遁甲方術の本(兵書)などを献納したとされています(
参考)。






:  魏志倭人伝の中の風俗に記述「・・・人の性(情)は、酒をたしなむ。・・・」の下に、斐松之の注が記されている。すなわち、「『魏略』にいう。その俗は、正歳四時を知らない。ただ春耕秋収を記して年紀としているだけである。」(参考)