すなわち、当時、九州は宮地嶽神社(筑紫の日向)付近の糟屋屯倉以東、岡の水門、洞海湾あたり、豊前国、本州は穴門から東が、応神天皇の東征以降、秦氏のヤマト政権と推定される。秦氏の居住地分布がそのまま、ヤマト政権の勢力圏とみて差し支えない。
秦氏の居住地分布(ヤマト政権の勢力圏、引用)
神功皇后時代は博多湾内の箱崎宮辺りから、穴門国の向津具半島まで、西暦923年以降は関門海峡から向津具半島辺りの島戸をヤマト政権自らの本州の直轄防衛線とした(参考)。すなわち、九州本土の防衛は九州現地政権が責任を持たされたことがわかる。西暦663年、白村江の戦い以降、九州の防衛のため大宰府を内陸(現在の大宰府跡)へ移し、水城や朝鮮式山城を建設し、防衛をアピールした。
参考
磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された。胸形(宗像)王は、「磐井の乱」以降、その地位は格段に向上した。654年、宗像徳善(胸形君徳善)の女で、天武天皇の妃の尼子娘が高市皇子を出産する。 天武天皇の代に、宗像朝臣を賜う。 宮地嶽古墳の被葬者が宗像徳善と云われている。
糟屋屯倉より南は秦氏の勢力範囲外か?