秦氏の渡来ルート | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

5世紀前後からの秦氏の朝鮮半島から日本に渡来するルートは、宗像氏、安曇氏、住吉氏の協力のもと、少なくとも4ルートあった。1は梅ケ峠を目指す長門ルート、2は八幡を目指す豊前ルート、3は島根半島を目指す出雲ルート、4は宮地嶽神社を目指す宗像ルートであった。途中には中継地として、6の沖ノ島、5の見島がある。出雲ルートには隠岐島を中継する場合もあろう。1と2の分岐には藍島が入ることもあろう。

{DA0E5146-C3C9-4997-993A-CF122C378C04:01}


参考

下関市梅ケ峠(1)





下関市内のルート周防灘と響灘を結ぶルート


隋書東夷伝にある秦王国の首都は下関だった

豊葦原中津国は三ヶ所あった、さらに東に向けて進出した候補地

朝鮮半島の任那から渡来した

シルクロードの弓月国を通過した

YAP遺伝子で判明、秦氏は中東出身であった


沖ノ島などから出土した渡来人のお土産

宮地嶽神社の宮司が自ら舞う筑紫舞など文化も渡来した

神武東征のルート、筑紫の日向は宮地嶽神社の高天原だった。天照皇大神は宮地嶽神社の高天原付近の北九州にお住まいになった

土師器、須恵器など先端技術が渡来した


下関市豊北町の特牛などの牛の産地の観点から、追加ルートの存在が示唆される。