梅ケ峠についての調査と考察 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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旧下関市と旧豊浦郡豊浦町の境界であり、JR山陰線の梅ケ峠駅、また国道191号線上の梅ケ峠バス停が峠にある。この峠の名前の由来は梅の木が沢山あった峠から来ていると言われているが、人工的な峠に思え、気になったので現場に行って調査した。

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北から南に走る国道191号線の歩道から真南のJR梅ケ峠駅とバス停を撮影した。左右の台地を削り取って国道191号線とJR山陰線が通過している。向こう側、南は下って永田郷地区となる。

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右手の台地は西方の山につながり、新興住宅地となり、向こう側、南方向は下って溜池がある。手前も下って溜池、厚母郷地区、小字大休庵となる。

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左手の台地は元大学のキャンパスがある。溜池が周りに7箇所あり、台地を取り囲み、東側の山につながる。

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黒井から南下して梅ケ峠の左手、元大学のキャンパス方向を望む。東西に広がる台地である。

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南東方向に元大学のキャンパスを見下ろす写真がネットで見つかったので添付する。後ろの土手に登って見る。右手、南方向が永田郷、左手前、北方向が厚母郷。

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台地の頂上は東西に延びる細長い土手状の稜線で、南下は畑、北下は急斜面を下って元大学のキャンパス地盤となる。

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梅ケ峠、上(北)が黒井、厚母郷、下(南)が吉見、永田郷、赤線の先端が東西に細長い稜線の土手で、上段写真がその稜線に対応し、北が元大学のキャンパス、南が畑である。開発で削られて原状は不明であるが、キャンパスの周辺を巡った観察では大きな変化は無さそうで円形に近い台地と推定される。土手の稜線が蛇行して右二つ巴に見える。『豊浦町史 二』にある厚母村地下上申の絵図によればャンパス地は原(開拓して広げた平地を原と言う)であった。

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台地を取り囲む7ヶ所の溜池が分かりやすい。厚母川と永田川の源流となっている。上の航空写真と本地図の等高線と地域境界に着目すると、台地の様子が良く理解できる。

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土手の斜面は樹齢を重ねた様な木々が目に付き、また、キャンパスの地盤と国道を挟んだ西側の土塁はほぼ同じ高さであり、元々、砦として削り取られていた可能性が大きい。また、土手のキャンパス側の斜面は急にそそり立っており、嘆きの壁の様な壁面と言っても言い過ぎではない。

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土手の南斜面の畑、自然の斜面のままに見える。

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若王子溜池、南斜面の畑がこの樹齢を重ねた樹木の向こうに有る。

つまり、東西の山に挟まれた谷間に小高い
台地があり、これを取り囲む溜池と土塁をつなげた形になっている。現在、この土塁を突き切って、国道191号線とJR山陰線の線路が通過している。私の想像ですが、南北に通じた広い峠の東側は自然の円形の台地を利用して砦とし、西側を埋めて土塁とし南北の通路を遮った状態にしている。台地に近接した稲作用の溜池が濠の様にも思え、博多にある水城と同じ防塁の役目が考えられる。

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南側の永田郷の田園から北方向の厚母郷方向を望む。目の前の台地の向こうが元大学のキャンパス。

まさに防塁として埋めて作った峠、埋ケ峠ではなかろうか!これから梅ケ峠の名前がついたのであろう。『 豊浦町史 二 』の母村地下上申では埋炭ヶ峠(埋済ヶ峠では?)とあった。まさにその通りであった。


考察

さらに、室津、黒井、川棚と吉見、安岡を南北につなぐ古代の陸上の通路としては、国道191号線と旧北浦往還道(県道244号)の2経路あるが、梅ケ峠を埋め立て防塁にし、黒井、杜屋神社で蓋をすれば、旧北浦往還道(県道244号)に侵略軍団の通行を向けることが出来る。

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黒井、杜屋神社、右手が黒井、室津、川棚、左手が国道191号線で梅ケ峠、手前が鬼ケ城山につながる。(国道の旧道は神社の向こうにある。)

侵略軍団が室津や黒井、川棚に上陸し、瀬戸内海に浸入する場合、旧北浦往還道(県道244号)を通ることになり、長門城である鬼ケ城山頂から見下ろす麓を侵略軍団が通過し、山上から撃退することになる。ちなみに、国道191号線は最近、戦後になって本格的に整備された道で、明治時代ころまでは旧北浦往還道(県道244号)が主要幹線道路であった。

厚母村地下上申の地図の梅ヶ峠が埋炭ヶ峠と書いてあるほか、旧北浦往還道(県道244号線) 黒井と奥畑(吉見上)との境の峠が埋炭とある。どちらも意図的に埋めて通行を遮って防衛に資することを意味しているのであろう。

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この旧北浦往還道(244号)にも溜池が付属し、真東に鬼ケ城山頂がある。

溜池については弥生、古墳時代からの稲作が主目的ではあろうが、防衛用の濠でもあろう。




梅ケ峠と吉母、毘沙ノ鼻の間を仕切る南北に伸びる山並みの最高峰が草場山で、梅ケ峠の西側の守りと響灘監視に役立つ。

永田本町の永田神社大正6年(1917)、合祀された厳島社が梅ヶ峠駅西裏山、妙音寺にあった。現在の永田神社は厳島社、779年創建の八幡宮ほかを合祀しているが、厳島社が最も立派な鳥居を最前列に建立している。元の場所では、溜池が付属した厳島社で宗像三女神のお一人、市杵島姫命を祀っている。この神様は神功皇后を三韓征伐のおり渡海のお世話をした海人族の宗像氏の氏神であり。西方向は正に吉母、蓋井島、沖ノ島(宗像大社)、対馬の厳原になっている。真東には一山越えて、鬼ケ城山、狩音山がある。なお、永田神社の八幡宮は塩田跡地守り神であるが、塩田は梅ケ峠の砦(推定)のための塩生産かもしれない。

さらに梅ケ峠付近の地名について調べる。峠の南側の永田郷の妙寺の小字は「若王子(にゃっこうじ)」、溜池は若王子溜池と言う。元大学のキャンパスのある斜面の字は「王地」と言う。東側の三つの溜池は王地上溜池、中溜池、下溜池と言う。今の梅ヶ峠は新しい道であり、それまでは東側の笹ヶ峠が利用されていた。笹ヶ峠は厚母の「王地」から永田郷「大原」 に抜ける道である。大原は若王子溜池の東南の小字、隣に神の前と言う小字もある、、と益々、納得させられる。元大学のキャンパスの北側近くに小字「王子」がある。杜屋神社に合祀された広幡神社は直ぐ隣りの大休庵(王子の説もある)にあったが、祭神、応神天皇にちなむ。さらに付近の永田郷や吉母などに住吉神社や忌宮神社の所領があったことも何らかの関係をうかがわせる。

長門城の建設時代を想定していたが、さらに遡り神功皇后、応神天皇の時代から関係がありそうで、当時の神様が今、注目している場所に御鎮座していたことは、まさに自然な地形では無い防塁、砦であったとする仮説を支持するものである。一歩進んで、応神天皇(ホムタワケノミコト)は一山越えて西側にあった吉母でご誕生しましたから、ここ梅ケ峠にお住まいされた可能性も否定できない。吉母の江良と梅ケ峠を直接に結ぶ山道があった。また、お守り役の神様を祀っている杜屋神社や授乳役の神様を祀っている乳母屋社も近く国道191号線で結ばれ、神功皇后の三韓征伐の出航、帰還の港として吉見の古宿が乳母屋社の近くであり、尚更、応神天皇の宮(すなわち豊明宮)の存在も納得出来る。

秦氏の居住地(防衛拠点)が、梅ケ峠を通る東西線と主要道路の3交点、及び南北の重要な2地点に存在した。梅ケ峠の砦(推定)も秦氏の砦または秦氏の主人(応神天皇)の宮と考えられる。

ここより北部の室津に甲山古墳群あるが、梅ケ峠の砦(推定)の住人の墓があるかも知れない。


参考