国外作成地図
これよりも前、モンゴル帝国が集めた知見を基に中国でいくつかの世界地図が作られており、混一疆理歴代国都之図はその集大成と言える。全体はMの字のような形をしており、一番右の出っ張りが朝鮮半島、中央の出っ張りが中国と南アジア、左の出っ張りがアラビア半島とアフリカである。アフリカの上にヨーロッパも描かれているが、地中海が陸地と同じ色で塗られているため分かりにくい。
なぜ日本列島が南に転倒しているのだろうか。それは、15世紀の初頭に、李氏朝鮮の廷臣である権近が、西を上方にして描かれた日本を具体的に書き表した最古の地図「行基図」を、不用意に挿入してしまったためだそうだ。大体、西を上にした地図を朝鮮の高官に渡すところからしても、正しい日本列島の情報を外国人から隠すと言うか、撹乱する意図もあったのであろう。
中国大陸と朝鮮半島の距離より相対的に日本が離れ、特に対馬の南北の距離があると言うことは船の航路情報が少ない証であろう。逆に、朝鮮半島南西端と上海と思しき場所が近いと言うことは、東シナ海の横断は朝鮮と中国間で日常的に行われていたことの証明である。
この様な努力の結果、日本列島の位置と向きに関する情報が、お隣の朝鮮でさえ魏志倭人伝(297年)程度の情報に限られ正確に伝わっていないことが理解出来る。つまり、15世紀初頭でも朝鮮から見て日本国の京都は南方にあると認識されていた。
古事記(712年)、日本書紀(720年).などは、日本政府の正統性をアピールする為の文書であるため国内外に写しを配布する必要があり、特に、この文書に書く際に機密保持を考慮したと考えられる。また、朝鮮人や中国人などの外国人と接触する可能性のある宗像氏など海人族は殊更、機密保護に気をつけていたであろう。江戸時代末期、伊能図をシーボルトが持ち出そうとしたことが大事件として扱われたことが良く理解できる。
この世界地図で、対馬を挟んで下関が最も朝鮮半島に近く位置しており、ここへの最短航路は日本侵略の最短コースであることがすぐ分かる。応神天皇の真の誕生地を秘密にして神功皇后の帰還ルートを隠し、そして7世紀に防人軍団の豊浦団と長門城を2カ所築城し、9世紀中頃に関門海峡に八幡宮を三つも同時に創建し、防人の軍団、豊浦団を残した理由がこれである。さらに、彦島八幡宮の場所は神功皇后時代からの防衛基地であった。北浦海岸の北端の島戸に東門鎮護、住吉八幡宮が鎮座していた。同時に北浦海岸の防衛の為に生野神社と大坪八幡宮が創建された。
遣隋使、遣新羅使、遣唐使、日宋貿易などが元寇(1274年、1281年)の来襲より前からおこなわれていたが、博多(筑紫館、鴻臚館)、壱岐を通過するルートを必ず通った、また外国使節も壱岐、博多経由で入国したのも余計な情報を外国人に与えない為であった。結果、元寇は北九州から長門付近に来襲した。わざわざ2回とも夏場に襲って台風にあって敗退したのも、防衛戦略通りでした。先兵は朝鮮軍であったが、日本列島の地理を知らなかった!知っていれば、冬の季節風と対馬海流に乗って日本海側を襲うべきである。
江戸時代の朝鮮通信使も対馬、壱岐、相の島、赤間関のルートを往復した。
宗像氏の海北道中は秘密ルートであったのであろう。
参考
朝鮮へ渡った行基図か?
参考