吉田松陰の教えを奇兵隊結成という形で具体化したのが松陰門下の高杉晋作であるならば、月性の教えを実践した月性門下生のリーダー格が大洲鉄然だった。鉄然は説法がうまく、話しはじめると聴衆がどっと押しかけて門が壊れるほどだったため「門こかし」といわれていたという。
長州藩内が正義派(討幕派)と俗論派(恭順派)に二分して対立しているとき、月性の遺志をついだ大洲鉄然などの西本願寺の僧たちが護法、護国のために正義派を支持すべきことを民衆に説いて廻ったことの意義は大きい。
維新後は排仏毀釈の嵐の中で、本願寺教団ならびに日本仏教界を代表して明治新政府との折衝にあたり、信教の自由をからくも勝ちとり、政教分離を貫いた。
注意
防長の真宗寺院はすべて西本願寺傘下にある。西本願寺の正式名は浄土真宗本願寺派本願寺と言う。