僧侶、大洲鉄然 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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周防国大島郡出身の西本願寺の僧、文武両道の西本願寺の僧侶、釈月性の後輩に当たり、彼の清狂草堂に入門し仏法護国論の影響を受けて倒幕活動に従事した。しかし、思想が過激過ぎたので本願寺を追われ、和泉国堺に渡って剣術道場を開いて糊口を凌いだ、長州に帰国して高杉晋作らと共に奇兵隊を設立した。しかし、長門系の人材が優遇される奇兵隊の現状に不満を抱き、第二奇兵隊結成の立て役者となった。第二次長州征伐では部隊と共に前線に出動した。維新後、功績により西本願寺中枢に復帰し、盟友木戸孝允など長州閥とのコネクションを活かして廃仏毀釈を逃れることなどで活躍したが、明如を中心とした本願寺の東京移転には猛反対して政治と一線を画した。

吉田松陰の教えを奇兵隊結成という形で具体化したのが松陰門下の高杉晋作であるならば、月性の教えを実践した月性門下生のリーダー格が大洲鉄然だった。鉄然は説法がうまく、話しはじめると聴衆がどっと押しかけて門が壊れるほどだったため「門こかし」といわれていたという。

長州藩内が正義派(討幕派)と俗論派(恭順派)に二分して対立しているとき、月性の遺志をついだ大洲鉄然などの西本願寺の僧たちが護法、護国のために正義派を支持すべきことを民衆に説いて廻ったことの意義は大きい。

維新後は排仏毀釈の嵐の中で、本願寺教団ならびに日本仏教界を代表して明治新政府との折衝にあたり、信教の自由をからくも勝ちとり、政教分離を貫いた。


注意

防長の真宗寺院はすべて西本願寺傘下にある。西本願寺の正式名は浄土真宗本願寺派本願寺と言う。