推古天皇の時代 19年(611)に百済(くだら)の聖明王の王子 琳聖太子が来朝した際、風光明媚な関門の地に、持仏の観世音菩薩を安置して堂を建てたことに始まります。この地の『観音崎』の名も、そこからつけられたものです。
後の桓武天皇の延暦23年(804)、右大臣 藤原良継が九州下向の途中、関門海峡で暴風雨にみまわれ船が遭難しかけましたが、永福寺の観世音の加護により、不思議にも難を逃れることができたとして、大同元年(806)藤原良継は天皇の指示で再びこの地に下り、飛騨の工匠 竹田希統に観音堂(後述 参照)を改築させました。当初は天台宗でしたが、やがて衰退、荒廃し、嘉暦2年(1327)に鎌倉 南禅寺の3代目 平田慈均禅師が来往して住職となり、臨済宗の道場、学僧の研修場となりました。その後 大内氏の加護と、民間の信仰の厚い観音堂もあって栄えて行き、朱子学の先覚者となった桂庵禅師が座主となっていた時期もありました。江戸時代には、大年寄の佐甲家の保護もあっていよいよ栄え、大正6年(1917)に、現在 山口銀行別館がある辺りから、背後の高台に移されました。
永福寺 観音堂 室町時代初期のものに属し、円覚寺 舎利殿、功山寺 仏殿と同じ唐様建築として、明治26年(1893) 当時の国宝に当たる内務省特別保護建築物に指定されていましたが、昭和20年7月の空襲で焼失してしまいました。その美しさから永福寺の観音堂は、『馬関雛型の堂』と呼ばれていました。
観音の開帳日にあたる7月17日に、「十七夜観音祭」が行われ、通称「幽霊まつり」と呼ばれています。およそ300年前、結核で亡くなった海産問屋の娘が両親の争いが絶えない事が気にかかり成仏出来ないと、この寺の住職の枕元に幽霊となって現れ、両親の不仲を説教して欲しいと懇願し住職は娘の姿を書写してこれを両親に示し諭した結果、父母は深く反省をして終生仲睦まじく暮らしたといいます。
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永福寺観音堂(明治末年ころ) 、臨済宗の道場として大内氏の庇護を受けた。
室町時代初期の建立と伝えられる旧国宝観音堂は、昭和二十年の戦災で焼失。每年七月十七日、当寺に伝わる幽霊の掛軸を開帳する「幽霊まつり」がある。(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)
参考