真木和泉守保臣 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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招魂社に始まる国家神道について、真木和泉守保臣、文化10年3月7日(1813年4月7日) - 元治元年7月21日(1864年8月22日)の影響が考えられる。彼は、江戸時代後期の久留米水天宮祠官、久留米藩士である。安政の大獄によって吉田松陰を失った後の尊攘派を先達として指導した。楠木正成の崇拝者として知られ、のちの湊川神社を始めとする人物顕彰神社の創建や、靖国神社を始めとする招魂社の成立に大きな影響を与えた。久留米水天宮は安徳天皇を祀る全国の水天宮の総本宮であり、明治期に白石正一郎が宮司を務めた赤間神宮も安徳天皇を祀っている。

真木和泉守保臣は久留米藩士と言っても、播磨国出身の有馬家の譜代の家臣ではなく、在地の神官、国学者であり、平家の落人でもあったため、差別待遇を受けていたと思われる。

白石正一郎は、明治維新後は赤間神宮の2代宮司となり、明治13年、69歳で死去。赤間神宮の背後の紅石山(べにしやま)に奥都城が昭和50年に建てられた。右隣には真木和泉守保臣の次男・真木菊四郎の墓が並ぶ。真木和泉守保臣自身は禁門の変の後に自刃し、天王山にねむっている。