観音岬、響灘に面した岬の一つ | 日本の歴史と日本人のルーツ

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観音岬(かんのんばな)、下関市安岡本町3丁目

別名(本名)、村崎の鼻ともよばれる。観音様のお鼻の様な美しい形であるだけでなく、大陸からの渡来者の安全を護るように関門海峡航路に向いている。

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観音岬、右手が安岡港

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この岬の先端の中央、野球場の付近の黒↓の下が観音岬古墳(前方後円墳)である。被葬者は相当の権力者であったであろう。

付近に縄文時代早期の遺跡の他、紫雲山東福寺、菅原神社がかつてあった。東福寺の本尊の十一面観世音菩薩は現在、曹洞宗玄空寺の本尊として安置され、また菅原神社は横野八幡宮内の天満宮になっている。

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安岡海水浴場から望む響灘、右手は観音岬、中央は白島、左手の海抜の低い平な島が藍島、関門航路は白島の右手から藍島手間にある。

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横野八幡宮の西隣の天満宮、元は観音岬にあった菅原神社(紅梅社)

菅原道真公は太宰府に降られる途中、忌宮神社に逗留され、この横野の浜から北九州に渡られました。ここで、筑紫に渡海するにあたって一首、歌を歌われた。渡海の途中、響灘の海上から北浦海岸、蓋井島、藍島、若松半島を眺められたのであろうか! 北九州に上陸後、八幡東区の秦氏ゆかりの豊山八幡神社で歌を残されている。これが関門海峡の最短航路を直接渡海しなかった理由であろう。

遡って、白村江の戦いの敗戦の頃、額田王や中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)が、蒲生野からここら辺りを歌われた。


参考




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黒嶋観音、吉母に十一面観世音菩薩がおられ、渡来して来た秦氏が信仰していた。