こんにちは、みなさんお元気ですか?

さて、ここ茨城県筑西市は、陶芸家・板谷波山先生(文化勲章受章者、茨城県名誉県民、筑西市名誉市民)の出身地です。そして来年令和4年は、その波山先生の生誕150年という節目の年。これを記念して、市の広報紙Peopleが波山先生の記事を連載しています。今回は、Vol.1に続き2をご紹介します。



広報筑西People令和3年6月1日号掲載

シリーズ 板谷波山 生誕150年
一木努(いちきつとむ)の
波山検索ファイル Vol.2「答案と土井先生」


板谷波山(嘉七)は明治10年(1877)田中小学校に入学、その年のうちに学校の再編のため下館小学校に移り、明治18年(1885)に卒業しました。
今回は、波山の小学校時代の逸話を追いかけます。

襖から波山の試験答案

「襖(ふすま)から波山の試験答案」の見出しは昭和59年(1984)の朝日新聞茨城版。
襖の下張りから板谷波山の小学校時代の答案用紙が出てきた、という記事です。37年前とはいえ、これは事件。現場となる下星谷の下条邸に向かいました。
下条家は、古里村長、下館町長、下館市長を輩出した旧家。

ご当主の下条仁士(しもじょうひとし)さんのご協力で捜索の結果、見つけ出した問題の品が上の写真です。欄外に記された、小学生とは思えない堂々とした「板谷嘉七」の署名部分をお目にかけます。



答案は縦の罫線入りの半紙に、鉛筆で地理教科書の一部が綴られています。級友15人の地理と6人の算術の答案も出てきたというのですが、でもなぜ襖の下に隠れていたのでしょう。
学校から紙屑屋を経て経師屋に渡り、下張りに使われた、と推察されますが、よりによってというか幸いなことに、建具の細部にまで目の届く下条家にたどり着いたとは、不思議なめぐり合わせもあるものです。
波山最古の署名答案、来年の波山生誕150年の記念展覧会で初公開できそうです。お楽しみに。


敬愛する土井校長



当時の小学校の土井次郎(どいじろう)校長(上写真)を敬愛していた波山は、その家塾にも通っていました。土井先生は元信州飯山藩士。藩の方針と対立して出奔、当地に招かれ関本に私塾「分陰軒(ぶんいんけん)」を開き多くの塾生を育てました。

その後下館小学校、さらに関本尋常小学校の校長を務め、明治30年(1897)に亡くなりました。没後12年を経て、門人たちが関本上の歓喜院に石碑を建立、波山の名も刻まれていたのですが、残念なことに現存してはいません。

平成9年に墓所は静岡に移されたのです。移転に立ち会ったひ孫の土井三廣(どいみつひろ)さんによると、石碑の移設は難しく止む無く解体撤去されたとのこと。移設時の写真(下)を送っていただきました。



この墓所を度々参拝していたという波山、文化勲章受章の報告に訪れたのが最後だったと言われています。

碑文を筆記した衆議院議員濱名信平(はまなしんぺい)も、また「関本町報」(大正5年創刊は、わが国自治体広報誌の発端か)に土井先生について書き残してくれた元関本町長池田序介(いけだじょすけ)も「分陰軒」の出身でした。彼ら大活躍した教え子たちや、土井家の子孫の多くが教職に就かれたことなどを思うと、あらためて土井先生の遺徳が偲ばれます。嘉七少年は土井先生からどのような影響を受けていたのでしょうか。

文 下館・時の会代表 一木努さん


花ものがたり 五月水無月 

紫陽花(あじさい)

文・学習院大学教授 荒川正明(あらかわまさあき)さん

紫陽花文茶碗(あじさいもんちゃわん)板谷波山作
昭和38年(1963)
高さ6.7㎝ 口径16.6㎝
佐野市立吉澤記念美術館所蔵

佐野市葛生東1−14−30



今年ももうすぐ梅雨、シトシト雨の連続で、なんとなく気分が滅入るものですが、一方で、街角には七色に輝くアジサイが咲きだし、心をいやしてくれます。雨に濡れキラキラ輝く可憐な花は、花束のようなゴージャスさも感じさせてくれますね。
アジサイの花、波山も大好きでした。生涯、この花のかたちをさまざまな器に表しています。おそらく、これまでの日本、いや世界の並みいるアーティストでも、アジサイを描かせたら、波山の右に出る者はいなかったのでは?

来年の春、しもだて美術館で開催される「生誕150年記念展」でも、このアジサイ文様の作品がいくつか並ぶ予定です。是非、本物を直に見てください。おすすめです。

私が好きな波山のアジサイ作品は、最晩年、亡くなる年の昭和38年、前のオリンピックの前年に作られた茶碗です。しっとりとした器面の質感は、硬い陶石ではなく、柔らかな陶土で表され、紫の色は、コバルトと塩化金を混ぜた顔料で彩られています。

波山さん91歳。最後の力をふり絞った渾身の作です。



波山ニュース

公益財団法人「波山先生記念会」



公益財団法人波山先生記念会は、波山が、大金の500万円を出資し、貧しくて進学できない子どもたちの育成などを目的として、昭和38年(1963)10月10日に発足しました。

病床で財団病設立の知らせを聞いた波山は、その直後安心したようにこの世を去ったといいます。
この資金を基に、昭和40年(1965)から毎年、大学へ進学する学生数名に奨学金を支給し、その総数は146名にのぼります。
波山先生記念会は現在、波山の孫にあたる板谷駿一(いたやしゅんいち)さんが理事長を務め、板谷波山記念館の指定管理者として施設の管理運営を行っています。

※昭和38年国家公務員の初任給 大卒:上級(甲)17,100円(人事院資料)


問・しもだて美術館 電話0296-23−1601



というわけで、広報筑西Peopleの板谷波山生誕150年記念の連載記事は、Vol.3に続きます。

※今回の本文中、波山記念館前に建つ波山像の写真を差し替えさせていただきましたので、ご了承ください。