こんにちは、みなさんお元気ですか?

さて、わたくし臣(しん)が住む茨城県筑西市、その市街地のほぼ中心にある大町(筑西市甲)には、下館祇園祭りで有名な羽黒神社が鎮座しています。

この大町の羽黒神社は文明3年、初代下館城主の水谷勝氏(みずのやかつうじ)公が領内安堵のため、日頃尊崇していた出羽国(山形県)羽黒権現を勧請したものとされています。
常陸国と下野国にまたがる水谷領内には、この大町の羽黒神社を中心に多くの羽黒神社が建立され、吉数である7を用いて「七羽黒」と呼ばれました。また一説には、結城七社を模した(『茨城県神社誌』口戸羽黒神社の項「出羽羽黒山の御分霊を迎へ結城七社を模して鎮斎した」)とも言われています。

本日ご紹介するのは、その七羽黒のひとつ、岡芹にある上羽黒神社です↓



拝殿↓


拝殿の内部、「上羽黒山」の扁額が↓


本殿↓



解説板がありました↓


下館の天門を守る神社
上羽黒神社 筑西市岡芹九六八-一番地
七羽黒神社の一つで水谷勝氏(みずのやかつうじ)(初代)が、文明十三年(一四八一)出羽屋敷国(山形県)羽黒大権現を勧請し、下館城の最も重要な天門、城の搦手の岡芹村に建立した。
勝氏は、古式により、下館城を守る為に、鬼門にあたる稲野辺村、
風門の下岡崎村、病門の外塚村、天門の岡芹村、中宮の方位、城の南に羽黒神社を建立、三十余郷の安寧の守護神とした。上羽黒神社の本殿、拝殿はよく創建時の状態を維持。
平成十四年、茨城県文化財(建造物)に指定された。
当時の記憶(記録の誤植か?)によれば、上羽黒大権現、別当、天台宗、日耀山(につきざん)正福寺、御朱印、十石、岡芹、水谷伊勢守勝隆(みずのやいせのかみかつたか)、元和四年戊午(つちのえうま)年建立、水谷家之鎮守、祭礼毎年朔日。
尚、元和四年戊午年建立とあるのは、勝隆が上、下羽黒神社の社殿を修復したことである。
撰文 宮本朔夫
寄贈 下館商工会議所


なお、写真の解説板には記載がありませんが、昭和39年(1964)、上羽黒神社が所蔵する江戸時代初期の絵馬(縦98cm、横130cm、檜材、金箔)が茨城県の文化財に指定されています。
絵馬は寛永15年(1638)、下館藩主水谷勝宗の武運長久を祈願するために、家老の鶴見内蔵助忠俊が上羽黒神社に奉納したもので、同様のものが大町の羽黒神社(下羽黒神社)にも奉納され現存します。

境内にある天満宮↓


境内で見つけた中で、おそらくは最も古い石造物(石仏)↓




元禄七年(1694)甲戌(きのえいぬ)に岡芹村念仏講衆が建立したものと思われます。

明治の神仏分離令まで、神と仏は特に区別されるべきものではなかったので、神社に仏像があっても不思議ではありません。

ただし、念仏講といって、一番に思い浮かぶのは浄土宗系のお寺。
下館市史には、上羽黒山大権現(上羽黒神社)の別当寺は天台宗であったという記載があるので、やや違和感が残ります↓

田宮家文書「下館領内神社寺院附縁起旧跡(年月不詳)」
上羽黒山大権現 別当 天台宗 日耀山正福寺
御朱印拾石 岡芹


なお最初に「七羽黒」と簡単に書きましたが、実はそこにも少し問題があります。
前述の解説板にもあるように、勝氏公は領内に、大町(下館)の羽黒神社とあわせての五つの羽黒神社を建立したとされています。
そして、更に2つの羽黒神社を加えて「七羽黒」と呼ばれるようになったと言われているのですが・・・
史料・文献により記述に違いがあり、どれをもって「七羽黒」なのかはっきりしません。
そこで、このブログでは当分の間、「七羽黒」がどれなのか特定せず、関係すると思われる羽黒神社をご紹介していきたいと思います。

なお、水谷氏は後に備中松山藩(岡山県高梁市)に国替えとなりましたが、転封先の倉敷市玉島(旧玉島市)にも羽黒大権現をまつり、この玉島の羽黒大権現(羽黒神社)も、今なお現地で篤く信仰されています。

更に水谷氏は、国重要文化財に指定されている備中松山城の天守閣2階にある御社壇(祭壇)にも、羽黒大権現を祀っています。
現地解説板より↓
「天和3年(1683)、当時の城主・水谷左京亮勝宗(みずのやさきょうのすけかつむね)がこの松山城を修築したその節、松山藩5万石の守護として三振の宝剣に天照皇太神(てんしょうこうたいじん)を始め、水谷氏の守護神羽黒大権現(はぐろだいごんげん)等十の神々を勧請しこの御社壇に安置し、事あるご毎に盛大な祭典を行ない、安康を祈った」


というわけで、岡芹にある上羽黒神社のご紹介でした。