こんにちは、みなさんお元気ですか?
本日は、ここ茨城県筑西市の歴史・文化財のお話です。

市街地化が進み、今となってはその全貌を見出すことさえ困難ですが・・・
ここ筑西市には、明治を迎えるまで、下館城というお城がありました。
本城町(もとしろちょう)の筑西市立下館小学校北側にある八幡神社周辺が北の出丸で、国道50号あたりまでが凡その縄張り。その南には城下町が広がっていたのです。

こちらは、八幡神社に建つ下館城址の碑↓

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八幡神社境内には、案内板も建っています↓



以下は案内板の解説より

下館の地は今から一千余年前の天慶3年(西暦940年)平将門が騒乱を起こした時
これを平定するため藤原秀郷(俵藤太)が上館、中館、下館の三館を築いた所であるといわれている。
中館(伊佐城)はここから1.9キロメートル北方にあり、南北朝争乱の際 伊達行朝(当地出身、仙台伊達家の祖)が南朝のため籠城奮戦した史実で有名である。
上館(下田城[くげたじょう])は同じく6.5キロメートル北方にあり、戦国時代の勇将 水谷蟠龍斎政村[みずのやばんりゅうさいまさむら]の居城として知られている。
当下館城は、室町時代の中頃文明10年(1478年)水谷勝氏が初めて築城したものである。
水谷氏は以後勝国、勝之、勝吉、治持と続いて次第に勢力を拡張し、次の6代政村の頃は5万石を領するに至ったが、政村は下館を弟勝俊に譲って、自分は前記久下田城に移った。
次の勝隆の代になって備中(岡山県)に移封となり、水戸家[徳川]頼房の長男頼重(光圀の兄)が新たに5万石の城主として下館を賜ったが、三年後には讃岐高松12万石を賜って栄転、下館を去った。
以後増山正弥、黒田直邦とたびたび城主が変わったが、享保17年(1732年)石川総茂が2万石の城主として着任してからは、代々石川氏の領分として 9代137年間此の地を支配し、明治となって廃城となった
撰文 青山苔華氏 
下館ライオンズクラブ寄贈


現在城の遺構はほとんど残っていないのですが、それらしきものはいくつかあります。いつになるかわかりませんが、機会があれば記事にしたいと思います。


というわけで、下館城跡のご紹介でした。