画用紙に鉛筆で描いたアンジェリーナ・ジョリー
ハリウッド女優アンジェリーナ・ジョリー
この鉛筆画は描き始めたばかりのものですで、2013年と書いてあります。
本当に描き始めたのもで、ザラザラした画用紙でした。
映画「トゥームレイダー」ポスターのアンジェリーナ・ジョリーは強くてセックシーで近く似合った画用紙に描きました。
また本格的に描き始める前でした。
いま見ると雑な仕上がりで恥ずかしい限りです。
最近は、アンジェリーナ・ジョリーを何枚か描いています、そちらは機会があれば紹介します。
A4のケント紙に鉛筆で描いたブルース・リー(燃えよドラゴンの地下のファイトシーン)
「燃えよドラゴン」は1973年に世界に公開されたハリウッドと香港の合作映画です。
その後に1974年「ドラゴン危機一発」、「ドラゴン怒りの鉄拳」。
そして1975年には「ドラゴンへの道」と立て続けにヒットし、
日本にドラゴンブーム(ブルース・リーブーム)が社会現象になり、特に小学校や中学生は特に熱狂していました。
当時の新聞で「燃えよドラゴン」を90回見た大学生がいた事を覚えています。
私は熱狂的なファンではなかったのですが、周りの友達よく真似をしていましたので、なんとなく好きになった感じです。
また、自分が中国帰りなので、よくカンフーの真似をさせられました(中国人はみんなカンフーを知っていると思っているみたいな)。
また梶原一騎先生の「あしたのジョー」や「空手バカ一代」などの影響もあって本当に格闘技を好きになり、空手やボクシングをやるようになりました。
ブルース・リーによって人生が変わりました。
ブルース・リーファンの方に限り鉛筆画のリクエストに応じます。
ご希望の方はこちらまでお申し込みください。
今日は1974年(う昭和49年)に発行された雑誌「ブルース・リー武術大特集・截拳道」を紹介します。
今読むと、時代を感じます。
まず、截拳道を「せっけんどう」と読んでいました、懐かしいな!
今はほとんど「ジークンドー」です。
まだ、カンフーという言葉がなく、代わりに中国拳法や空手を使っていました。
ブルース・リーは空手の名手と紹介していましたね。
この雑誌はブルース・リーの雑誌にして珍しく全部白黒です。表紙以外一枚のカラー写真もないです。

截拳道の鼓動
悲劇のスター、ブルース・リーが、単なる。 映画スターではなく、空手の名手として、自分があみ出した截拳道の創始者としても注目 されている。
中国拳法に、テコンドー、キックボクシング、 合気道と、あらゆる武術を加味し、彼は截拳道を創立し、世を去った。文武にすぐれ、実業家としても才能があったという、悲劇の人に人は同情を寄せ、とかく、過大評価する者が多い。それはそれで、人の情として許容される。しかし、武術の世界は、もっと冷酷である。技量を非難し批判するのが常である。ただ、截拳道のために、彼は必死にその技の研究に没頭した。狂気じみた感さえあったと聞いている。
彼がこうまでして截拳道の創造に賭けた、 その奥義とは何か。永遠のナゾといわれる死の遺産「截拳道」をめぐって、武術家の間では賛否両論がある。
彼の妻と子はアメリカに居住し、香港・九龍の豪邸は、もはや他人の手に渡った。いまは、彼の残した截拳道でしか、偲べないのかも知れない。
その彼の截拳道、死を迎えるまでの、三十二年間の人生の大半をついやして完成した拳法がそれだとすれば、彼の魂がそこに眠っているはずである。截拳道の非難は別としても、彼は映画以外に、偉大な一つの業績を残したわけである。
それは理屈というものを抜きにして、素直に認めざるをえない。映画だけにおいても、 世界を席巻したのも、また事実である。そして、不世出のスターといい、武術家か不世出の武術家とも認めはじめている。そこで、その「截拳道」のすべてを、あらためて見つめ研究してみたいと思うのである。

目次
截拳道の鼓動
截拳道への道
これが截拳道だ(ジェームズ・リー東京著)
中国拳法に流れる伝統
拳法の歴史
東洋の代表的な武術
習練
截拳道と拳法の基礎
型にこだわるな
相手は強者を選べ
修練を積み五感を働かせよ
ブルース・リー完全指導/截拳道トレーニング法
ブルース・リー語録
日本空手道

ブルース・リー 名言
良い教師というものは、自分の力なり、考え方を生徒に押し付けぬもの。
画用紙に鉛筆で描いた瀬古利彦さん
私は26歳のときからマラソンにハマりまして、20,30代にいろんな大会に出ました。
フルマラソンは少ないのですが、31歳の時に練習のつもりで出た大会を2時間43分で走った。
当時は5キロ、10キロや駅伝がメインで、毎日20キロぐらい走っていましたが、自分にフルマラソンを走りきる力がないと思っていた。
レースの二日前の金曜日に雑誌(ランナーズ)に前日まで申し込む可能のフルマラソン大会を見つけたので、練習のつもりで申し込んだ。
練習で40キロを何回が走ったことはあるが、一人で走るのは結構つらい。
本当に練習のつもりでしたが、いちょう目標はサブスリー(3時間切り)でしたが、
なので、5キロを21分20秒以内で走ればサブスリーは達成できる、とペース設定。
だが、最初の5キロを二十歳の男の子とトップで走って19分台で入ってしまった。
当時はトラックの5000mを16分30秒台をコンスタントに出していたので、19分でもすごく楽に感じた。
7キロ過ぎに二十歳の子がやめってしたので、自分一人で残りの35キロを走ることになった、ほぼ19分台。
最後の5キロの18分30秒台で走った。
残り2キロあたりに記録を意識しだし、ペースアップしたが、もっと早くスパートをかければ17分台も可能なはず。
「35キロの壁」はなかった。
その後、毎年出場した30キロの大会で自己記録を更新(1時間49分)しました。
ただ、このときは最初の5キロを周りにつられて17分30秒で入り、最後の5キロを19分台後半と散々でした。
イーブンペースで行けばもっと記録が良いはず。
つくづくマラソンはペース配分が大事だと思った。
このとき調子が良かったので、その後の練習のし過ぎで本番のフルマラソンで結果を出せなかった。
レースは特にトラックの5000メートルが好きでした、ロードの5キロより30秒以上も速い。
昨日は約一年ぶり走りました。
久しぶりなので、40分ほどのジョギング。
今朝は、その疲れをほぐすため70分ほどのウォーキング。
秋にレースに出場することを目標に走り続けていきたいです。
この鉛筆画(瀬古利彦)は10年前に描き始めたばかりのものです。
画用紙に描いたものです。
今はほとんどケント紙に描いています。
当時はよく走ってましたから、読んでいた雑誌に瀬古さんの写真が載ていたので、思わずに描いてしまった。
これからは鉛筆画とマラソンでがんばります!
瀬古さんは私が尊敬するマラソンランナーのひとりです。
走る前によく瀬古さんのビデオを見て、走るフォームをイメージしてました。
瀬古利彦は当時世界最強のマラソンランナーでした。
YU-KIさん(本名 北村夕起)は1993年にTRFのボーカルとしてデビューした。
私は初めて見たのは1994年だと思います。
初めて見た時は衝撃を覚えました、いわゆる一目惚れですかね。
自分は人を好きになるには容姿以外に話し方、普段の振る舞いや考え方など相互して判断して好きになるのですが、YUKIさんの場合はビジュアルに好き、そこからはじまったのです。
おそらく、子供の時分に見た松本零士さんの「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」の中に出ている女性キャラクターだと思います、細く、弱々しいけど芯の強い女性、特に「宇宙戦艦ヤマト」の森雪のようなショートカットが好きでした、そのような影響からだと思います。
その後もYUKIさんを知るようになりさらに好きになるようになりました。
声も良いですね!!
因みに、この絵を何回も描いたのですが、上手く描けません、今回はやっと合格ラインにたどり着いた(自分の中では)のでアップしてみました、多分気合い入れすぎでるかな〜。
動物を描きはじめたのは7、8年前でした。
当時働いた警備の会社の年下の先輩の女性で、私とは友だちのような関係でした。
仕事に対しては他の女性と違って積極的で、男顔まけで、先輩や社長とも議論することもあるぐらいでした。
周りから恐れた存在でしたが、私にはとっても優しく接してくれた。
教え時も諭すように話してくれた。
また、仕事中も何かと理由をつけて缶コーヒーなどを奢ってくれた。
仕事帰りもよく一緒にマックに行きました、でも話の8割が仕事でした(悲)。
彼女は家で数匹の犬と猫を飼っていました。
そんな責任感と心優しい彼女からの依頼で描いたのがこの2枚です、それまで人物画しか描かなかった。
いま見るとずいぶんマンガチックで恥ずかしいです、いまは警備の仕事を辞めて彼女と連絡取れないが、もし連絡取れたら描きなおしたいです。
これからもっと精進したいと思います(^^)