ゴールデンウィークは、あっちこっち出かける。
天気悪い日も、あった、あったけど。

帽子かぶってるし、長袖だし、無防備な訳でも…

ない、ないと言いたい!でも、答え出てる。
手も顔も焼け、ショック受ける日焼けどめ必要な季節になったか。

さて。

当時は、だんじりのビデオ作れる人も少なく。
自分らがその一手担う先駆けだった。

まだまだ、だんじりのビデオ自体。
地域毎に殆んどなかった時代、偶然、ビデオを作る。

それが始まりで高石は、勝手知った地域と言っても過言でない関わりあり。


お願いされたとこだけだし、と言ってたらあっちもこっちも作って上げる事になり、この町の映像も作ってた。

今、一線身を引いた我々。

誰に頼んだのかビデオ撮ってるヤツ居たし。
映像作成は成り立ってるんだろね。

しかし、何で入魂式は朝早いんだろうか。


5時45分出発と警察に提出した曳行コースには書いてたから逆算しても、4時半過ぎには家を出ないとと。

何とか時間に間に合って高石神社に到着。




50m程曳いて、高石神社へ宮入り。


何れまた書く話なんだけど、ここの地区も。
幾つかの町が、神社の境内内にだんじり小屋が並ぶ。

直ぐに入魂式の祈祷。



お祓いが終わるとだんじりの向きを変えた。
綺麗になっただんじりの姿見の撮影タイム、始まる。

どさくさ紛れに、あたしも。

この後、だんじりは紀州街道を南下して各町へ御披露目曳行始まる。



独特な聞いた事もない太鼓の叩き方。
走る、走る。

あたし追っかけるのに必死(笑)

この後、道も詳しいし、だんじりから離れて先回り。

やりまわし箇所で待機する。



御披露目曳行も、周回コースへ入る。

普段を、知ってるけど自棄に人数多く。
聞いたら3町から青年団の助っ人来てたそうなんだけど…

案の定。

ヒヤヒヤする曳き方を、周回コースグルグルと曳く。



高石区政で言うと、五区に該当する。
界隈、近所の方なら高石にそんな町あったっけ?と。

高石の町名と言うと綾園だっけ、高師浜に千代田、羽衣、高砂、取石だから北新町だなんて町はないのよ。


現在のだんじり新調した時は、五区奉賛会を略した五賛会言うのが謎な町名だった。

昔々は、田畑が多かったから北新田と言う地名だったらしいが、今は一切、田畑ない事から田を抜いた北の新しい町で、北新町となった話。

最近、入魂式見に行ったら話しに来る子が喋る。 

知ってます?って聞かれたけど、そんな話聞いた事もないし、初めて聞いたと、後で調べたら本当だった。

纏に、その名残り、田に北新町と。


休憩中、マニアさん根掘り葉掘り見る。
見送りの馬乗り彫ってる人がなんか違う気する一つ。

河合君っぽいけど…

触った彫り師は、かけつけの修理をしたとインスタに書いてた、じぁ、前回の修理の時に足されたか。

それと、ばらいて組み直したら歪みあったらしく、作り替えようと新しく土台新調したって聞いたんやけども。

それ出来る工務店が謎、過ぎる。
だから藤本は人気あるのか。


桜と、だんじり。




式典会場は、関西スーパーの駐車場だった。
用事が出来たので珍しく早々と帰る。

助っ人って言う言葉は今や普通になった。
まだそんな言葉言われてない時に、曳きに行ってた( 試験曳きの日が違うから )。

誰が作った言う様な子供だんじり曳いた時も。
そんな時から高石の人と繋がる。


高石のだんじりは最近のものだと思われがちですが、戦中にだんじり手放しただけで戦前にはあったって言う、話あるんです。

以後、祭りは下火だった昭和58年の秋。

市主催で高石まつり市役所前パレードが行われ( 今は行われてない )市内各地区パレード参加目指し花車の制作やだんじりの購入が活発化。

当時はねって言う、軽トラ飾りつけし、だんじりにしてた町あったり、この町も、高さ2mちょいな子供だんじりを曳いてた。

それが岸和田の影響受け。
ちゃんとしただんじりを購入や新調し、今現在に至る。


30年と言う歳月はすっかり様変わりする程。
変わった高石のだんじり。