こんにちは!
障害児の家族のサポーター
フラクタル心理カウンセラーの清水之〈ゆき〉です。


先日、生後1ヶ月の赤ちゃんに逢いに行きました。
長年、OLをしていた友人が、突然、お母さんに変身するのですから、当然、赤ちゃんに振り回される生活。
赤ちゃんが泣き止まなければ、「具合が悪いの??」と心配になります。
まだお話も出来ませんし、1日中、赤ちゃんから目が離せず、寝不足状態。。
自分時間の殆どを、育児に費やされる訳ですから、新たな修行のスタート。
だから、育児は「育自」と言われるのですね



私の母もOLでした。
当時としては珍しく、大学を卒業して数年間、男性社会の中で、会社勤めをしていました

そんな母が、今から49年前。。
結婚して1年以内に双子を産み、ちょうど1年後に、もう1人出産。
更に、双子の1人〈私の姉〉は、生後8ヶ月で脳性麻痺という診断を受けました。
母が、私の妹を出産した頃、ようやく1歳になったヨチヨチ歩きの私。
脳性麻痺の姉は、首も座らずに赤ちゃんのように世話をされる状態。。
姉が11歳で亡くなるまで、この状態が続きました。

今思うと、20代後半の母は、企業戦士で休みなく働く夫には協力を得られず、3人の我が子をどんな思いで育てていたか。。
姉の障害がわかり、親戚からは、「そんな血筋はウチにはない!双子に年子を産むなんて計画性がない!」等と言われ、「3人を連れて死にたい。。」と途方に暮れたそうです。

そんな母の姿をずっと見てきた私。。
いつも母の手伝いをしなければ!!と幼い頃から思って生きてきました。

今は亡き祖母が入院している時、付き添っている私に、同じ話を何回もしていました。
「ゆきは、泣かない赤ちゃんだったよ。
お姉ちゃんがミルクを飲むまで待ってたよ。
赤ちゃんでも、我慢するんだね。」

母からも、「1歳前には、1人で手掴みでご飯を食べ、1歳にはオムツも取れて、おもらしもしたことがない、手のかからない子どもだったよ。」


私は、2歳くらいからの映像が今も浮かんできます。
発熱した私をアパートに残して、母は姉と妹を連れて、銭湯に行くことがありました。

姉が食べ物を詰まらせたり、妹が火傷をして救急車で運ばれた時、私と姉か妹、子ども2人だけで留守番していることもありました。
残された姉か妹は、やはり、不安で号泣するので、私は我慢していました。
泣いている姉の頭を自分の膝にのせて、アイスクリームを食べさせてあげて、泣き止ませたことも。。

外に遊びに行こうとしても、母から、「お姉ちゃんは歩けないから、遊びに行けないのよ!!
可哀想だから、ゆきが遊んであげなさい!」と。

[なんで妹は遊びに行ってるのに私だけ??]

なんでいつも私だけ、我慢しなきゃいけないのー??

私はいつも泣くのを我慢していました。
大好きなお母さんを助けなきゃ!という気持ちと、お母さんは私のことは可愛くないんだ!と、ひがむ気持ちと、心が交互に入れ替わっている毎日を過ごしていました。


姉が、電車とバスで往復2時間近くかかる専門施設の訓練に通うようになり、私だけ、近所の幼稚園に通うことになった時…
当然、幼稚園の後は、近所の人に預けられたり、
1人で留守番することもありました。

幼稚園から帰り、冷蔵庫から母が作ってくれていたカ◯ピ◯を、コップのラップを外して飲む私。

大好きな乳酸飲料。
なのに、喉に詰まってゴックンできない。
おまけに胸が痛い。
寂しくて、泣きたいのに、我慢。

帰宅した妹に、「お姉ちゃんと一緒の連絡帳を作ってもらったよー!」

なんで、私には、
連絡帳と可愛いイチゴのシールがないのー?

妹だけ、ずるい!!

ママ…なぜかカ◯ピ◯がのどにつまってのめないのー。

つづく。。