あと一歩だけ前に進もう | 思考の散歩道

思考の散歩道

毎日いろいろなことを考えています。そんな思考の散歩で感じたことを書いていきます。

昔の自分を振り返ってみた。


そういえば亡くなった母は私のことをいつも「短気」と言っていた。考えてみると思い込みも激しかった。


いまあるプロジェクトを4人で進めている。理想を語り合っている時は楽しくて心地よかったけれど、話が具体的になってきて細かいところで調整が必要になってくると自分の意見はとおらないし、やったことに対して「これはダメ」なんて話も出てくる。


以前の私だったら自分の意見をとおそうとして語気を荒げたり相手を攻撃していたはずだけれど今回は全くそれがない。それぞれの意見を聞きながら「へぇーこんな考え方もあるんだ」とか「その感性は自分にはないなぁ~」と話を聞いて調整をしている。


変わったなぁ~(笑)



以前の私は「思い込みが激しく、気性も激しかった」つまり過剰だったのだ。


なぜ過剰だったのか分析すると・・・・・・精神的に弱かった。



気は強いけれど精神的に弱い


それは・・・・・


精神的に弱いところを隠すため気が強くなっている・・・つまり過剰になっているってこと。


気性の激しい人って大体精神的に弱いですね。


でもそんな自分を見たくないから見ない。もっと重症になると「私は精神的に弱いことを知っています」と答えを言って「だからこれ以上そのことは言わないでね」と逃げている。


私は闘病の14年間で精神的に強くなりました。そして最近の出来事でやっぱり人間関係において悩み苦しんだ分だけ前に進めました。


その結果がいまの落ち着いた状態なのだと分析しました。


もうひとつ。


私はこの25年間必死で知識を求め吸収していました。それも過剰でした。


なぜ知識を過剰に求めたのか。


それは無価値感。



病気で全身が見るも無残な化け物になって外に出ればひどい事を言われたりされたりで本当に生き地獄でした。そんな時にテレビのニュースで何人も人を殺した犯人が家庭を持っていて普通に暮らしていたなんて聞くと「自分はこの殺人犯よりも人間のクズなんだな」と思っていました。


普通になれない自分は最低のクズ人間だと。


そんな思いが私を知識の鬼にさせた。


自分の無価値感から知識を得ても傲慢になるだけでした。使えもしない知識を語ったり人が話している時に話の腰を折って自分の存在感を示そうとしたり。


また振り向いて欲しい人には自分が沢山の知識を持っていてとても役に立ちますよとアピールしたり。


トコトンやりました。


そして・・・・・「なんてむなしいんだ」と頭ではなく肚(はら)から分かった時にとても気持ちが晴れやかになりました。「自分にはまだまだ知らないことが沢山ある。きっと学べば学ぶほど自分の無知を知ることになるのだろう。そして人は謙虚になる」と。


いまは程よい無価値感(もっと前に進まなければ)と程よい知識欲(自分が知らないことを知っている人に対して謙虚になる)になりました。


どちらも実践し、もしくは強制的に前に進まされたことによって程よさを得ることが出来ました。経験者としては強制的に進まされるよりも前に、自ら一歩だけ前に進んだほうが辛くないですよと付け加えておきます。



知識や情報があふれるなか、みんなが答えを知っています。その答えをブログや本やセミナーで知って共感してもなにも変化はありません。


いまいる場所から・・・一歩だけ前に進んで見ましょう。勇気を出して。



追伸・・・自分が前に一歩踏み出したかどうかって実は本人が一番分からないものです。それを指摘してくれる仲間と出会いましょう。その仲間との関係は決して楽しいことばかりじゃないですが人は人によってしか磨かれないのですから痛い思いや嫌な思いも必要だということです。