昨日ネットで1994年の東京の一日の日常を撮影した動画を見ました。今から20年前の街は今とあまり変わらない。でも何かが違う・・・・
そう1994年といえば、タブレットやスマホどころかまだ携帯電話もそれほど普及していない。
Windows95も発売されていない。
つまり多くの人たちがネットでつながっていなかった時代。
自己表現して目立ちたいと思ったら大変だった。クラブのお立ち台に上がるのも大変だったし、暴走族は厳しい縦社会だった。
自己表現が大変な時代だった。
で・・・・20年後の2014年はSNSやブログなどで多くの人がネットでつながり簡単に自己表現が出来るようになった。
人には「承認欲求」がある。人によって強弱はあるが無い人はいない。
そして多くの人たちが自分のプライバシーを公開したり自己顕示をするようになりました。
皆が自己表現をしている今の時代、もちろん弊害もある。
我々がネットで繋がる前は他人のことはよく分からなかった。知ることが出来なかったのだ。ましてや会ったこともない人のプライバシーなんて知るよしも無い。
でも今はネット上に他人のプライバシーが溢れている。このブログもそうだけれど自分の意見や考えをネットで公開している。また自分の写真をさらしている人もいる。
以前このブログに宮部みゆきさんの著書『名もなき毒』について書きました。この小説に登場する無差別殺人の犯人は不幸な青年だった。世の中には自分の責任ではなく不幸のどん底にいる人たちが大勢いる。そんな青年が自分はこんなにも不幸なのだから、幸せにしている人を殺す権利があるといって無差別殺人を犯す。
青年の言い分は無茶苦茶である。でも私にはこの青年の気持ちがよく分る。自分も病気で苦しんでいた時に、何度も街を幸せそうに歩いている人たちを殺してやろうという衝動に襲われた。
「この世はバランス、世の中の不幸を自分が背負っているからこいつらが幸せなんだ」と。
人と自分を比べることは意味が無い。
自分だけが不幸だと思ったら大間違い。
そういった分りきった言葉を口にする人たちは本当のどん底を味わったことがあるのだろうか。自分の力ではどうすることも出来ないどん底中のどん底。
だから私はそんなどん底にいる人と会ったりするのが辛い。何も言う言葉がなくなるからだ。もし幸せそうな人を殺してやりたいと言ったら「うんそうだよね、わかるよ」としか言えないことが分っているから・・・・説得はするけれど。
さて、この世の中にはそんな人たちがたくさんいる。また自己責任とはいえ厳しい状況の人たちはその何倍にもなるだろう。
今日ネットで経済に困窮するシングルマザーが売春に走っていると言う記事を見ました。離婚の原因はそれぞれだけど衣食住すらままならない。また多くの人たちが精神疾患を患っているそうだ。
こんな人たちもネットにつながって多くの人のプライバシーに接する。
衣食住が満たされ自由な時間を謳歌している人を彼らが見たらどう思うだろう。ましてや偉そうに人生の薀蓄をたれていたら。
昨年久しぶりに行ったキャバクラで私の席についた女子大生がファッションに興味があって出来ればその業界に進みたいし自分のファッションセンスも認めてもらいたいと話していた。
私は彼女に注意の意味をこめて「ブログやSNSに自分の顔を晒して自分のファッションセンスを誇示している人がいるけれど・・・・」とまで言った所で彼女は私のことばを遮り「そんな危険なことはしません。いつ誰かのターゲットになるか分からないから」と。
いまどきの女子大生はネットの恐さを大人よりもよく知っているみたいですね。
100人支持者がいても一人のそういった人がいればターゲットになる確率は跳ね上がるし、一人いれば潜在的にはその何倍もいるはずです。
誰でも簡単に自己表現が出来る時代、「ほどほどに」がキーワードだと思いますがいかがでしょう。