自由きままは獣と同じ | 思考の散歩道

思考の散歩道

毎日いろいろなことを考えています。そんな思考の散歩で感じたことを書いていきます。

昨日の記事の補足だけれどよくよく考えれば「あの時あの人はこうだったよな」と思うのだけれど他に意識がフォーカスしているから気がつかないことが多い。


会えば人の噂や評価・・・・さらに悪口と「ねえねえ○○さんのことどう思います」とか「○○さんのこんなとこおかしいと思いませんか」なんていう会話が連発する人は必ず自分のことも言われていると考えるのが道理だけれど見落としてしまうことが多い。



ここから本題です。

自由に生きたい、ありのままの自分で生きたい、なんて実は人の・・・・というよりは動物の本能みたいなもので昔からあったことだけれど人類の歴史をみると権力者の特権みたいなもので権力者が自由気ままに生きる犠牲として庶民は我慢と辛抱をしてきたわけです。


で・・・・


今の日本は個人が自由に、ありのままに生きることできる社会です。それでよく観察してみました。「自由に生きたい」「ありのままの自分で生きたい」と主張している人を。


見ていて感じたのはそこでも権力争いがあると実感しました。例えばある集まりで一人が自由気ままに振る舞うには他の人よりも優位に立たなければなりません。


友人の奥さんが子供を連れて公園デビューするにも公園に集まる母親の中にボスがいてそのボスが自由気ままに振る舞っているし、ママ友も同じ。


男でも飲み会なのでも自己中なヤツが主導権を握って自由に言いたいことをしゃべりまくり満足している。


もちろん全て集まりや飲み会がそうではないけれど「自由に生きたい」「ありのままの自分で生きたい」という人は例外なくその場の主導権を握ろうと行動に出ます。


例えば、矢継ぎ早に言葉を連発して他の人に話す機会を与えない。褒めまくったり、人の会話を「そうそう・・・・で私は」とさえぎる。そうやって主導権争いに勝った人はその場で自由にありのままに振る舞って「やっぱり自由はいい」と満足しているのだ。


分りやすいのはその手の人が権力争いに負けると不機嫌な顔をしてその場を過ごしたり、そのボスがいないときにボスを悪く言ったり、勝てないと分ると「私は独りが好き」と開き直って逃走する。


生き方が「勝ち負け」なんです。



つまり獣と同じ。



で・・・人間は動物であるけれど獣ではない。だから「和」「調和」「謙虚」なんてことを大切にする。猿山のボス猿に「和」「調和」「謙虚」なんて考えは無いでしょう。


また、人は過大欲があるので自分の欲求を途中で止めることができません。権力を手に入れた人も最初はそれほど強欲ではなかったはず。でもエスカレートしていく。


「社会通念上」なんて言葉はなんの制限にもならないのが人というものです。万物の霊長といわれる人は獣と違ってそこが試されているのではないでしょうか。


自由に生きる、でも限度はありますといいますけれど、限度って具体的に何ですかと。


法律や制度で認められる範囲ですか?


最後にこの言葉。


制度は気づきを持たない。思考せず、良心を持たず、道徳的選択も出来ない。なぜなら、制度は抽象的概念だからである。制度は私たち次第なのだ。


ジェイムス・ポリス


同様に限度も私たち次第、そして人には過大欲がある。


獣の生き方、人の生き方、今の日本はどちらを選んでも大丈夫な社会です。くれぐれも過剰にならないようにしましょう。