幡多地方は応仁の乱〈1468年)を逃れて京都から下向してきた一条教房公により開かれたとされてきました。
今年3月9日南国市の高知県民族資料館にて開催された「西南四国の中世社会と公家」いう鋤柄同志社大学教授の記念講演を拝聴そこで鎌倉時代の西南四国の推移が明らかになった。
鎌倉時代の権力構造が明らかになった。
西園寺家は頼朝と姻戚関係を持ち、天皇家とも姻戚にあり、
朝廷で力を蓄えていた九条家とは屋敷が隣接しており、かつこの両家は姻戚関係でもあったという。
鋤柄教授によればこの両家の屋敷跡の発掘から長崎県から出土する石窯が発見されており、このことから長崎に西園寺家と九条家の荘園があったという。さらに北九州、西南四国にこの両家の荘園があり、いずれも中国貿易に従事する上での足場としていたと想定されるという。
1350年頃九条家による幡多荘の経営がはじまっているとされており、九条家から一条家が分家されて幡多荘が一条氏の支配下になったのはいつ頃であろうか。
いずれにしても鎌倉時代に朝廷の権力の中枢を握っていた
西園寺家と九条家の荘園経営を西国に求めていた結果が
長崎、北九州、西南四国の3か所の荘園の確保であったらしい。
その西南四国の九条家の荘園が幡多荘であった。
1468年応仁の乱を逃れて京都から一条教房公が幡多に下向しなければこの地域の発展は望めなかったであろうことが判った。
歴史って面白いですね。





