6月14日には樋口真吉没150年祭をおこなった話題をご紹介します。
先日の高知新聞にこの記事が出ていました。
樋口真吉は、幕末に活躍した人物ですが、残念ながら全国区に名前が知られてはいません。
この写真が2枚しかない真吉の写真で、戊辰戦争時に会津戦争を終えて帰路、横浜で写した写真だそうです。
彼の生涯は足軽から身を起こして、先ずは大石神陰流の剣術の免許皆伝を21歳で受けるほどの剣客であったのですが、剣術は精神修養の手段とばかり、もっぱら西洋砲術や国学を学び勤皇の志士になり、土佐藩の評価を得て藩主や山内容堂公の側近にまで出世しました。
とりわけ地元中村(現四万十市)に文武館という藩校を創り、若者の教育に熱心であった人物です。
彼の生涯の詳細が分かるのは膨大な日記を書き残しているのです。
そのお陰で下記の本が出版されています。
地元に生まれながら私自身、樋口真吉を全く知りませんでした。
坂本龍馬より20歳年上で、武市半平太や中岡慎太郎とも親交があり、龍馬ともピンポイントで接点を持つ人物です。
山内容堂公にも信頼され、戊辰戦争時には53歳ながら西洋砲術に詳しい知見を活用して、最新式の銃器を購入し政府軍に供給したり、土佐藩の迅衝隊の兵士が不足した際には1カ月で横浜と土佐を海路往復して、500名の補充兵を充足させるなど政府軍勝利への
貢献は大きかったのですが、明治3年病死したのです。
その時従七位が贈られたのですが、30年後明治36年に改めで従四位を追贈されています。
そんな人物でありながら地元で子供たちに何ひとつ伝えてこなかった教育の要因があり、私自身も全く知りませんでした。
今、地元に樋口真吉顕彰会が出来、少しづつ顕彰を始めています。
そんな中での樋口真吉没150年祭を行うことができました。
当日は四万十市の中平市長、小出議長、徳弘教育長も参列していただいで、盛大な150年祭となりました。