鎌倉期の仏像の所有権は一体誰に? | 南海トラフ地震・津波よ、来るな!

南海トラフ地震・津波よ、来るな!

南海トラフ地震と津波災害の予測がされている高知県から自分の身を守る、家族の身を守る、周囲の人を守る防災を考えていきます。
そして国際交流が多様化する中、文明と文明の出会い部分に注目して、日本人がどうすれば良いのか、について考えていきます。

前回、正持院法然寺に残されている「舟板名号」の存在について

レポートをいたしました。

 

この四国の西南の地に、13世紀の初めに法然上人が流罪になった

ことがきっかけで、浄土宗が伝えられたことが判明したのです。

 

その物的証拠が見つかったという報告でした。

 

寺社側では、驚くことではなく、昔からその事実を認識していた訳ですが、私を含めて一般市民は誰も知らなかっただけの話です。

 

早速このことを四万十市教育委員会に報告しました。

そのうち正持院法然寺を訪問して、検証します・・と連絡がありました。

 

そして、もう1つ、大事な事実を知りました。

 

四万十市の中心部から5~6km北に蕨岡という地区があります。

 

1221年に承久の乱が起きますが、結果、後鳥羽上皇は、失敗

首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、

順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。

討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されました(後に阿波国へ移される)。

 

この土佐国こそ、この中村(現四万十市)だったのです。

しかも中村の北部の蕨岡地区に土御門上皇が来られていた痕跡が

あるのです。

 

当時、蕨岡地区の御所があったらしい場所に、こんな立て札と仏像があるのです。

 

見ずらいので拡大すると・・

この海蔵寺と土御門上皇との関係を今、追いかけていますが、

よく分かっていません。

 

仏像はこんな有様です。

 

 

ただ、気になったのは、海蔵寺の本尊の阿弥陀仏が、こんな処に

放置されたままで良いのか?ということです。

 

これも教育委員会に報告しましたら、早速に調査してくれました。

調べてみたら鎌倉期の仏像だと県の教育委員会の文芸委員が調査をして報告書が10年ほど前に出ていました。

 

報告書が出来上がったら、それでお役所の仕事はお終いなのですね。冗談ではありません。

 

仏像はコンクリート製の小屋に安置してるものの、だれが見ても湿気でかなり劣化しているように見えるのです。

 

そして分かったことは、明治4年の廃仏毀釈令によって、ここにあった

浄土宗の海蔵寺が廃寺になったということです。

 

そこで、この仏像を同じ宗派の正持院法然寺の住職に相談したら、

預かっていいですよ、と言ってくださったのです。

 

さて、そこで教育委員会の担当者はこう言いました。

「所有者の方に相談の上、決める必要がありますね。」

というのです。

 

もちろん正論には違いありません。(汗)

 

しかし正当な所有権は、海蔵寺のはずですが、今は存在していません。廃仏毀釈で廃寺になってからは、この地域の葬儀は神社の管轄になって今日に至っているようです。

 

すでに所有権の議論は無意味なのです。

幸い、地元の有志ある方々が写真のようなコンクリートの保管小屋を

作ったのが平成20年らしいので、関係者が居ることがわかりました。

 

今、その皆さんも高齢化しているので、恐らく正持院法然寺に保管してもらう案になるはずですが、検討してもらっています。

 

地元の古老たちが意見の一致をみれば、仏像の所有権にみなすと判定ができましょう。

 

正持院法然寺に保管してもらう運びになれば良いと念じつつ、

今日もまだ結論がでません。

 

私には関係ないものの、この仏像が何とも哀れに思うのです。

 

何でも鑑定団に出して100万円とかの評価がでると、面白いでしょうね。そんな策もありかと空想しています。(笑)

 

この先は、土御門上皇さまご一行がこの地に来られたことと、

浄土宗の寺院がこの地にできた因果関係を見つけたい・・

これが念願です。