梵我一如の真意 | GLORIOUS MEMORY

梵我一如の真意



梵(ブラフマン)=実体のない太陽

真我(アートマン)=実体のない鏡


古典ヨーガの根本経典『ヨーガ・スートラ』の定義である「心の作用を止滅すること」とは、業(ごう)と欲への「執着する心=縛られた感情」を捨て、思考を見つめる自我(想念観察者)の奥にある意識(純粋観照者)を客観的に認識することです。故に、その意識は「本当の自分=真我(アートマン)」という概念から、多くの人々が「真我は光輝く特別な者である」と錯覚しています。

純粋観照者の「観照」の意味は、主観を交えず物事を冷静に観察し、智慧(真理を見極める認識力)によって物事の本質を明らかにすることです。

暗喩的表現(メタファー)を使うならば、真実を映し出す実体のない鏡が真我です。そして、その真実を映し出すために光を照らす実体のない太陽が「宇宙の根本原理=梵(ブラフマン)」です。

*以下ヨーガを「ヨガ」という


梵(ブラフマン)=実体のない太陽の本質は、「無」であり何もない「空(くう)」です。

例えば、月を想像して下さい。太陽が自ら光を放つのに対し、月は自ら光を放つことはできない。月が夜空に輝く姿で見えるのは、太陽の強い光に照らされて鏡のように反射しているからです。しかし、その光の源である太陽には姿がなく、主な水素とヘリウム等が集まった高温ガスの塊(天体)です。

この世に存在する全ての物事には、必ず原因があるから結果がある。その起源が、梵であり姿のない太陽の光と同様に、その実体は見えない「神=高次元の存在(アセンデッドマスター)」という定義です。先に述べたように、月は太陽の強い光に照らされることで反射しているから見える。言い換えれば、高次元の存在が本当の自分であると知る(魂の気づきを得る)ために梵は存在するということです。


一方、真我(アートマン)=実体のない鏡の本質は、これも「無」であり何もない「空(くう)」です。

例えば、水鏡を想像して下さい。水面に映る景色は、触れてもその実体は水であって映っている物体そのものは水面にはない。そこにあるのは、ただ映し出している事実(錯覚)のみです。

人間の脳は、「光は直進する」と見て(感じて)いるため、正反射(入射角と反射角が等しく反射)した光が目に入ることで、視線の先に物体があるように見えてしまう。それを「鏡面反射」と言います。

鏡である存在が鏡に映らないのと同様に、その実体は見えない「魂=純粋精神(プルシャ)」という定義です。その鏡に映って見えている自分とは、本当の自分=真我(アートマン)ではなく執着を生み出す幻想(顕在意識の壁)に過ぎない。言い換えれば、純粋精神が本当の自分であると知る(魂の気づきを得る)ために真我は存在するということです。


上記の梵(ブラフマン)と真我(アートマン)が同一であると客観的に認識するのが、潜在意識(第六感)の先にある自我意識(超越論的自我)です。それを「梵我一如(宇宙と一体化)」と言います。ヨガ哲学の「ヴェーダンタ学派」を支柱に確立された「不二一元論」の概念です。この感覚を身体で理解(実感体得)するためには、自我意識(自意識)の確立が必要です。つまり、「我思う、故に我在り」です。


この「我思う、故に我在り」とは、フランスの哲学者であるルネ・デカルト氏(1596年 - 1650年)の言葉です。「真理(宇宙の道理)」の存在を証明したかった彼は、「信仰」ではなく「方法的懐疑(常識による固定観念を捨てること)」に基づく探求を示したかった。

永遠不変の真理に辿り着くために誤謬(ごびゅう)は全て排除し、例え真実に見えても疑う余地があれば徹底的に否定すること。その結果、どんなに全てを排除するにしても「疑っている自分自身の存在は否定できない」と説いた。

裏を返せば、「自分自身の存在を否定すれば真理の存在=神の存在を肯定できる」という哲学原理に到達したということです。これは、「かがみ(鏡)」から「が(我)」を取ると、「かみ(神)」になることを象徴しています。つまり、本当の自分=真我の存在(純粋観照者)を知るために自我の存在(想念観察者)があり、宇宙の根本原理=梵の存在(観察対象)と調和するために主観的に認識する自我意識(経験的自我)と客観的に認識する自我意識(超越論的自我)を確立しなければならないと説いているのです。


ちなみに、ディズニーアニメ『ライオン・キング』では、呪術師のラフィキが冥想に耽けシンバに「智慧(真理を見極める認識力)」を得る方法を教える重要な演出があります。

ラフィキが「おいで!」と連れて行く場所は、シンバには全く未知の世界です。まずは、全く通らない狭い道を必死に走ることで、煩悩でいっぱいの頭の中を空っぽにすること。シンバが目的に向かって集中し執着心がなくなったところで、ラフィキは突然「待て!」と立ち止まらせます。そして、静かに水場へと案内し覗き込ませますが、水面に映った自分の顔を見ているシンバに、もう一度その奥を見るようにと覗き込ませます。


「ムファサはお前の中に生きている」

このラフィキの言葉によって、シンバは真理(宇宙の道理)に辿り着き、本当の自分を思い出すようにと神(高次元に存在するムファサ)の啓示を受けます。ようやく真我が覚醒し、今自分が何をすべきかを悟ったシンバだったが、どうしてもまだ感情が否定してしまい即時行動ができません。

ラフィキは、杖でシンバの頭を叩き「全てを捨て去ること」と「全てを受け入れ認めること」を説きます。


「お前は過去の痛みから逃げることもできるし、その過去の痛みから学ぶこともできる」

シンバは、ラフィキが2度目に叩こうとした杖を避けます。

「これで為すべきことを為せの意味が分かったな?」と言うラフィキの言葉で、シンバは王としての使命を果たすために勇気を出して故郷へ帰ります。

このように、ラフィキの言葉は正に「梵我一如(宇宙と一体化)」の真意を説き明かしているのです。


島倉 学