「第5次中東戦争」?イスラム過激派ハマス、イスラエル侵攻で人質多数
ガザから空陸両面 ロケット弾3000発、人質100人規模か
イスラエル南西にあるパレスチナ自治区「ガザ」を実効支配するイスラム過激派「ハマス」は、現地時間10月7日未明、イスラエル側に大規模な攻撃を仕掛けた。ロケット弾3000発、パラグライダーによる上空から、壁をぶち破っての地上からの侵入で、双方の死者は2000人に達するとみられる。ガザ地区に連れ去られたイスラエル側の人質は約100人とも言われる。イスラエルのネタニヤフ首相は「戦争状態」を宣言。もはや「第5次中東戦争」との感もある。
「イスラエル」「パレスチナ」、人種・宗教の違い
中東の紛争は非常にわかりづらいので、ざっとおさらいしておく。
大雑把に言うと
イスラエル=ユダヤ教徒=ユダヤ人
パレスチナ=イスラム教徒=アラブ人
(世界史の先生に怒られそうだが、超絶単純化してみた)
いまのイスラエルの所に2000年前、ユダヤ人が住んでいた。しかしローマ帝国に追われ離散し、世界中、塵云になった。旧約聖書に出てくる話で、いつかまた戻ってくると決めていたので「約束の地」とも言われている。
ユダヤ人が出っていった後、この地に住むようになったのがアラブ人。「パレスチナ」と呼ばれるようになり、ほとんどがイスラム教徒だった。
第一次大戦中、英国「三枚舌外交」に弄ばれた歴史
ここから益々話がややこしくなる。このイスラエルは第一次世界大戦前まで「オスマントルコ」(アラブ系)という帝国が支配していた。第一次大戦の中心的構図は英国vsドイツ・オスマントルコであった。どうしても戦争に勝ちたい英国は「空(から)手形」を乱発する。これを英国の「三枚舌外交」といった。
英国のついた3つの大嘘は、つぎの通り
〇アラブ諸国には、戦争に勝ったら「パレスチナ」の地を保証します
(フサイン=マクマホン協定、1915年)
〇ユダヤ人には、戦争に勝ったら「イスラエル」に戻って自分たちの国を作ってください
(バルフォア宣言、1917年)
〇同盟国の仏・露には、戦争に勝ったらオスマントルコを山分けしましょう
(サイクス・ピコ協定、1916年、内密協定)
結果的には英国が勝つわけだが、戦後、収拾がつかなくなるのは自明の理であった。ユダヤ人たちは喜び勇んでパレスチナとなっていた「イスラエル」に入植を始める。これを「シオニズム運動」という。「シオン」は聖都エルサレムの敬称である。日本で信仰の対象である富士山を「大山(おおやま)」と呼んだのに似ている。
パレスチナ自治区が泣き別れになったわけ
元々アラブ人が住んでいた「パレスチナ」の地(イスラエル)にユダヤ人が大量に押し寄せてきたわけで、混乱を極めた。手がつけられなくなった英国は逃げ出し、第二次世界大戦を経て(1947年イスラエル建国)、国連に丸投げしてしまう。国連も適当で最初「均等分割」を提案する。が、4回に渡る「中東戦争」(イスラエル4連勝)、米国という後ろ盾の存在、ユダヤ人の才覚が相まって、イスラエル側は徐々に勢いを増す。イスラエルの内、ヨルダン(アラブ系)に近いところを「ヨルダン川西岸」地区、エジプト(アラブ系)に近いところを「ガザ」地区と呼んで、両方にアラブ人を固めて住まわせた。ユダヤ人が大勢のイスラエルの地に、飛び地でふたつの小さな「パレスチナ」地区ができあがったのは、こうしたわけがある。
「ハマス」が過激になっていった理由
国連の方針に不満を持つ両勢力。パレスチナ勢では、PLO(パレスチナ民族解放戦線)のアラファト議長(故人)は最初こそ過激だったが、融和調停「オスロ合意」(1993年)を受け入れ、現実路線へと舵を切る。これに納得しないイスラム原理主義勢力(聖典コーランのままの社会を実現しようとする勢力)がいた。これがハマス(1988年結成、2007年から実効支配)だったわけだ。「ハマス」という名前はどこから来たかというと、アラビア語『イスラム抵抗運動』の頭文字を並べてそのまま読むと、「ハマス」という発音になる。「実効支配」とあたまにつくのは、選挙を経た政権ではないという意味。かつて正式な選挙で政権(ファタハ=パレスチナ系=と連立)を保持していたが、途中から腕力でガザだけを統治するようになった。
「パレスチナ」は日本政府が認めていないので「パレスチナ自治区」とマスコミは書いているが、世界130か国以上が「パレスチナ国」として承認している。
ここまでおわかりになっただろうか。どうしてハマスが今回の挙に出たのか探ってみたい。