日航機墜落事故から38年、8・12に思い出すNHK「NC9」木村太郎キャスター
8月12日は「日航ジャンボ機墜落事故」が起きた日である。1985年のことだから38年前になる。あの日のことはよく覚えている。旧盆の前日で、帰省ラッシュくらいしかニュースがない日だった。突然の大事故だった。
「Mrサンデー」コメンテイター木村氏との出会いは連載担当
新聞社を1年で辞めて、国文学系の出版社が初めて挑戦する週刊誌の記者になっていた。埋め草記事を書いた新米から特集班に異動が叶い、5月の英国ダイアナ妃初来日では取材を任された。これが読者に好評で、やっと編集部に居場所ができたと感じていた。妃の美しさのお陰であった。そのつぎに任されたのが、当時NHK「NC9」のキャスターをしていた木村太郎氏の連載担当だった。いまフジ「Mrサンデー」のコメンテイターをされている。
そのころ私は東京・渋谷、NHK本館14階にある「記者室」に毎日出勤していた。いわば出先の常駐取材拠点である。NHKは放送業界全体の発展のために、それを取材する新聞・雑誌に便宜(部屋を用意していた)を図っていたわけだ。NC9のスタジオは5階にあり、スタジオ名称は「510」。本館と西館をつなぐ廊下の横に位置していた。スタジオの隅にブースがあった。人呼んで「タロー小屋」。その中で木村さんはニュース原稿をチェックしていた。同じビル内、近さもあって毎日入り浸っていた。
新米雑誌記者の仕事はテーマに合った写真探しから
打ち合わせと称していたが、NHKの看板キャスターと創刊間もない週刊誌のペーペー記者では格が違いすぎる。そのころ私のような存在を「トロッコ」といった。汽車(記者)にもならない、との拙い洒落である。テーマは木村さんが考え、文章も直すことなどありえないから、ありがたくいただくだけであった。私の仕事はテーマに合った写真探し。外信系の話題のときはロイター通信の日本支社(当時、皇居のそば、竹橋にある毎日新聞社のビルに入っていた)に伺い、最新のファイルを見て注文を出した。国内の話題は虎ノ門の株式会社共同通信(社団法人共同通信が配信した写真の2次利用を事業にしていた)か、大手町のサンケイ・フォトサービスで探した。
8・12の衝撃 木村氏がこだわった乗員乗客名簿の意味
やたら前置きが長くなったが、あの日。8月12日。ネタが薄い週なので、夕方の帰り際、編集部に帰るということであるが、のんびりムードでタロー小屋に顔を出した。その時、木村さんが言ったのが
「shimada君、日航機がレーダーから消えたそうだ」「はやく編集部に帰った方がいい」。
木村さんは510スタジオ「NC9」のセットのキャスター席に座ってしまった。まだ本番3時間前であった。緊急特別編成を暗に要求していた。
木村さんは乗員乗客名簿の入手と公表が、このアクシデントでは報道のカギとなると確信していたように思う。
果たして乗員乗客520人が亡くなる日本の航空機事故最悪の事故となった。生存者はわずか4人。「123便」は日航の欠番となった。
「山の日」が8月11日になったわけ
政府はお盆を連休にするため8月に「山の日」を企画したが、12日にするわけにはいかなかった。御巣鷹山に墜落した日を、国民の祝日で「山の日」とできないと考えたからだ。そこで「山の日」は8月11日、固定となったのである。
また、あの8月12日がやってくる。合掌。