春の5補選、保守系4勝1敗 自民と維新の未来は「以心伝心」?

 

維新ブームのなか立憲完敗、自民は拾い物

「自民4勝1敗」。4月23日に統一地方選後半戦とともに行なわれた衆参補選の結果を、翌日こう伝えるメディアが多かったようだ。

衆院千葉5区【英利(えり)アルフィヤ・自新】野党系の誰かが下りていたら自民に勝てた票差

衆院和歌山1区【林佑美(ゆみ)・維新】 自民が強い候補の擁立に失敗。爆弾テロの同情票なし。維新の会ブーム

衆院山口2区【岸信千世・自新】 引退間際の野党候補に薄氷の勝利

衆院山口4区【吉田真次・自新】 安倍首相の弔い合戦自民制す

参院大分【白坂亜紀・自新】 村山富市元首相(社民)地元・リベラル王国でも野党系及ばず。自民、拾い物

 

自民は3から4に増えたわけだが「はい。解散」というほど風は吹いていないようにも見る。

 

戦後政治史から自民党の強さを考える。「新自ク」と「維新会」共通点。

ここからは持論になる。そもそもブログとはそういうものらしいが、自民党が戦後生き延びている理由は3つあるように思う。

①     55年体制の成立 1955年、社会党の右派と左派が合同。危機感を覚えた日本民主党と自由党が合体した。「自由民主党」の成立である。55年体制が「ぬるま湯体質の政治」と言われるのは、いつも自民党が3分の2弱、社会党が3分の1強の議席を占めることになる。憲法改正はできないものの普通の法案ならなんでも通る。国会を出来レースの場にしてしまったわけだ。

②     新自由クラブの誕生  1976年12月、三木武夫内閣任期満了で迎えた衆院選で新党に風が吹いた。ロッキード事件で危機感を覚えた自民党の若手が党を割って出て作った「新自ク」(1976年6月25日発足)が18の議席を得たのだ。河野洋平氏(河野太郎・デジタル大臣の父)らわずか6人(衆5参1)で立ち上げた党である。

「新自ク」にいまの「日本維新の会」がダブって見える。大阪維新の会は、大阪自民党を割って出た、旧来の自民党では飽き足らない政治家の集団だった。ここが自民批判票の受け皿となって純粋な野党に票が回らない。「総保守」という観点に立つとパイの分配は大して変わらないという結果になる。役割を終えた新自クはいつの間にか自民に吸収されることになる。

③     民主党の失政  どう考えても東日本大震災の危機管理はお粗末だった。これでは日本を任せられないと国民が思ったのも無理はない。内部抗争がよく起こるのも不信感を増幅させた。

『リベラリズムのパラドクス』というものが世の中には存在すると思わざるを得ない。リベラルは少数派の意見を尊重するのが信条だが、それゆえに分派分裂を繰り返し、大きな目標を見失う。例はあまりよくないが、キリスト教で考える。「カトリック」を批判して台頭した「プロテスタント」にも拘わらず、横並びの宗派ばかりた。「カトリック」の方がまとまりがあり「祭りごと」が上手にみえる。

 

解散は「間」の問題、来年秋の総裁選睨む

「日本維新の会」については今後、触れざるをえなくなるだろう。で、衆院の解散時期であるが、5月19日からのG7広島サミット直後の可能性が若干増したか。総裁選は24年秋なので、あまり時間が空きすぎるのも「間が悪い」となるかもしれない。