報道協定を考える。「お妃候補報道自粛協定」

 

 

静かな環境を 宮内庁提案にマスコミ応じる

記者クラブの協定で記憶に新しいのは、皇太子お妃候補報道自粛協定である。今上天皇が皇太子であった頃の話だ。少しでも噂に上るとマスコミが押しかけるので、お妃候補(まだ候補と呼べる段階でない女性もたくさんいた)が、恐れをなしてしまう。これでは決まるものも決まらない。

宮内庁が日本新聞協会に「お妃選びに静かな環境を作ってほしい」と申し入れ、新聞協会も「殿下が結婚できない状況はまずい」と考えて、1992年2月13日に3カ月期限の協定締結となった。

雑誌協会もこれに準じた協定を結んだ。このときお茶の水にある日本雑誌協会に集められた面々による幹事社会議は、「抜け駆け許すまじ」、殺気だった雰囲気だったそうだ。

 

 

現場で感じた嫌な予感「抜かれるかも」

このとき現場にいたこちらは協定破りのスクープが出るだろうと思っていた。どう考えても小和田雅子さんで決まり。ほかに浮かばなかったからだ。

「小和田雅子さん」の名前を新聞に先駆け、最初に出したのは「週刊女性」(主婦と生活社)である。書いたのは皇室欄連載を担当していた澤田さんという記者だった。

小和田雅子さん。東大、英国留学、外務省北米局、外交官、父親は高級官僚、そもそも殿下が見初めていた。

もし雅子さんに難点があるとしたら次の2点しかなかった。

1、妹さんが双子であること。え?どうして?と思う方もいるかもしれない。遺伝学的に双子がいる家系は双子が生まれやすい。歴史的に双子は後継をめぐって争い、世が乱れるのだそうだ。

2、もう一つは、家系をさかのぼると、母方の祖父が水俣病の「チッソ」トップであること。まだ水俣病の後遺症で苦しんでいる人も存在する。

 

ワシントンポスト日本支社発、これも外圧か

お妃協定は更新に更新を重ね、まだ続くだろうと思われた。ところが運命の1993年1月6日を迎えるのだった。この日、思いもよらぬところからスクープが飛び出して、幕となったのだ。

 

この1週間ほど前から、こちらの編集部でも極秘会議が開かれ協定が解除されたとき、すぐ記事が出せるよう準備を進めていた。またテレビ局の動きを調べるようにいわれ、こちらは局の幹部たちに電話を入れた。

「小和田さんは決定だね。こっちは協定を守るが、雑誌がすっぱ抜くようなことがあったらただじゃおかねえ」。かなり脅しを含んだ声が受話器から聞こえてきた

 

なんとスクープはワシントンポスト東京支社発だった(午後2時30分頃配信)。外国のワシントンポストは協定に縛られない。誰も文句はいえない。東郷という日本人の記者が書いたようだ。

これで急遽、同日午後8時45分協定解除。ドラマが突然切れてスタジオ生放送の「報道特番」がカットインされた局もあった。覚えている方もいるだろうと思う。

 

今考えてみるとこうした報道協定は、現在のようなSNS社会では用をなさないかもしれない。Twitterで誰かがつぶやいたら終わりである。

このドタバタ劇が「報道協定」の問題点を炙り出すことになった。