記者クラブ制度を考える。「黒板協定」「誘拐報道協定」編

 

明治からはじまる記者クラブ制度

日本の「記者クラブ」は,1980(明治23)年、「第一回帝国議会」開会を前に新聞各社が「議会出入記者団」を組織したことから始まるというのが定説になっている。

取材陣の混乱を回避するための組織が、戦中は「大本営」の広報機関となり、敗戦後GHQからの命令で〈親睦を目的にする〉組織に趣旨替えさせられた歴史をもつ。

戦後、ひたすら変わっていないのが「日本新聞協会加盟社」しか記者クラブに入れないことだ。記者クラブのドアには「関係者以外立ち入り禁止」という看板が出ている。この部屋の主は通信社記者、新聞記者、テレビ局記者。このドアは、雑誌記者、フリーランスの記者、外国メディアの記者には絶壁として存在している。

 

 

いまでも健在「黒板協定」とは

この記者クラブには内部の統制をはかるため「協定」というルールがある。これに違反すると「出入り禁止〇カ月」(出禁=デキンと言う)、最悪は「除名」となる。

最も有名でいまでも続いているのが「黒板協定」だろう。記者クラブ所属各社は「幹事」を持ち回りで担当する。2カ月交代が多いのではないかと思う。

この幹事社が広報と打ち合わせをして定例の記者会見の日取りなどを決める。クラブの一番目立つところに黒板(いまはホワイトボードのことが多い)が掛けてある。

例えば1月のある日、幹事社が「2月15日、フジテレビ4月改編記者会見」と、この黒板に書き込んだとする。この時点から原則フジテレビの4月改編の記事が書けなくなる。これが「黒板協定」だ。2月15日に発表するならもう決まっているだろうと、取材が殺到するのを防ぐための協定である。

官庁では「〇〇白書」「××青書」を毎年出すが、この配布時によく「黒板協定」を使う。トップシークレットが書いてあるはずもないが、各社バランバランで記事にされるとインパクトが落ちると広報担当者が思っているわけだ。官庁が広報戦略として「黒板協定」を利用する例だ。

 

 

身代金誘拐が起きたときの「誘拐報道協定」

協定で緊迫感があるのが「誘拐報道協定」。いまはほとんど起こらないが、昭和のころ身代金目的の誘拐が頻発した時期があった。犯人は必ず「警察には言うな」と脅してくる。この時に記事が出ると、警察に知れていると当然思うので、人質の命が危ない。そこで「誘拐報道協定」が結ばれる。警察と記者クラブ加盟各社で文書が交わされて成立となる。

身代金誘拐はいままで1回も成功した例がなく、刑罰はやたらに重いので「割に合わない犯罪」となった。こんな協定は結ぶ機会がない方がいいに決まっている。

この「誘拐報道協定」であるエピソードを思い出した。犯人が逮捕されてから、協定解除までタイムラグがあるのだが、逮捕を知った新聞社がヘリを飛ばして現場の航空写真を撮って号外に載せた。この写真のキャプションに協定解除前の撮影時刻が書かれていたため「出禁」を食らったのだ。逮捕の後ならかまわないようなものだが。人質の安全のための協定か、記者クラブの秩序を守るための協定か。議論が沸き上がったことがあった。

 

 

次回は、協定のなかでも特異な例に属する、今上天皇に関する「お妃報道自粛協定」に触れてみたい。