森友民事訴訟の「認諾」から日本の法哲学を考える

 

「大陸法」と「英米法」の違い

法律には「大陸法」「英米法」の2つの流れがあるそうだ。聞くところによると「大陸法」はドイツやフランスから伝わった法理で、「裁判は、お上が〈もの〉の正しい、正しくないを判断する」との考え方であると言う。一方の英米法は「裁判は、訴える側と訴えられた側の折り合いをつけさせる」との考え方で、文字通りイギリスやアメリカから伝わった法理だそうだ。

 

「遠山の金さん」にみる大陸法的思想

昔、テレビで「遠山の金さん」を見ていたが、金四郎が奉行所の上り淵に座り、お白洲で平身低頭する庶民に道理を言い含めたり、悪代官に切腹を命じたりの大活躍だった。子供心に当たり前と思って喝采していたが、これは「大陸法」的思考が日本人に馴染んであるからではないか。こんなことを最近思うようになった。

金四郎は捜査から判決まで、ひとりでやっていたから絶大な権力を持っていたことになる。行政権・司法権両方を掌握して、刑事・民事問わず裁いていたわけだ。

 

 

日本の「名誉毀損」は刑事でも民事でも

記者になりたての頃、デスクから日本では名誉毀損は刑法でも民法でも存在する罪なので気をつけるように」と言われた。考え方の違うアメリカでは「名誉毀損」は損害賠償の対象(民事訴訟にあたる)になるだけで、国が「これは名誉を毀損している、毀損していない」と判断(刑事訴訟にあたる)することはないそうだ。大陸法で育った人と英米法で育った人は永久に理解し合えないのではないか。

 

 

「認諾」した国の真意はどこにあるのか

で、森友問題である。事件当時の理財局長(のち国税庁長官)は公文書改竄で更迭されたが、刑事訴訟では国も元局長も起訴されなかった。自死した赤城俊夫さんの無念を晴らそうと奥さんは民事訴訟(国家賠償の請求)に持ち込んだが、国が「認諾」と言う思いもよらぬ手に出た。原告(奥さん)の言い分を総論として認め、賠償(慰謝料)も満額払うと言うのである。「認諾」=丸呑みで裁判は終わり。この「認諾」一見円満解決に見えるところがミソで、国の狙いもそこにありそうだ。争点がないのだから、証拠提出も、証人尋問も一切なし。事実は闇の中となった。まだ元局長に重過失があったのではないかとの裁判が残っているので流動的だが、国と国家公務員は一体であるとの考え方があり、どこまで真相に迫れるか疑問だ。

 

 

国家賠償の財源は国民の税金なり

国の払う慰謝料は、当然ながら国民の税金である。ちゃんと裁判をすれば賠償額を減らせたのではないかと考える人がいても不思議ではない。元局長が国の意向を超え違法な指示を出していたとなれば、国から元局長に求償がなされるべきと言う人もいるだろう。「国は裁判での争いを放棄し、有効に税金を使う努力を怠った」と新たな行政訴訟を起こす人がいるかもしれない。