映画「99.9」封切り。強大な「検察権力」を考える

 

 

起訴権を独占する検察の無謬神話

「99.9」という映画が12月30日に封切りされる。正月映画だからヒットを確信しているのだろう。「男はつらいよ」も正月映画だった。T B Sで2回ドラマ化されているから、このタイトルが日本における刑事裁判の有罪率に因んでいることはご存知だろう。起訴(公判請求)されたらまず無罪にならない。例外を除いて「起訴」する権利は「検察」が独占している。であるから「99.9」は日本の検察の優秀さを表現した数字であるが、起訴も人間の行なう行為なので、間違いを犯すことはないのだろうか。率直な疑問が浮かぶ。映画の方は弁護士が主人公だが、こちらは検察官・検事に焦点を当てる。

 

 

身分保障は十分だが出世欲は旺盛

日本は立法・行政・司法「三権分立」の国であるが、裁判官は司法のテリトリー、検事は行政のテリトリーに属している。裁判官は裁判所法、検事は検察庁法に縛られる。裁判官の人事は最高裁判所、検事の人事は検察庁が握っている。裁判官、検事とも普通のサラーリマンとは比べようもないほど身分が保障されている。給与・待遇しかり。例えば起訴状などの公的な重要書類、新米検事であっても自分の署名と捺印だけで出せる。サラリーマンの世界だと社長の署名と社判が要るだろう、官僚でも大臣のハンコが要るだろう、と思うところだ。この検事の独立性を称して「ひとり官庁」「独任制官庁」とも言う。

これだけ身分を保障されていながら、裁判官も検事も出世には貪欲らしい。子供の頃からエリート街道まっしぐらで来ているのだから、ひとの後塵を拝するのはいたたまれないのであろう。

 

裁判所が検察の追認機関になる危機

99.9の有罪率ということは「絶対いける」と確信がない限り起訴しないということだ。裁判費用は一部当事者が負担するものの大半は国民の税金を使って開かれるので利点はある。つまらない裁判を次々起こされたのでは税金の無駄使いだ。ただこれが先走りしすぎると裁判所の形骸化に繋がる。裁判所は検察の追認機関に過ぎなくなる。検察の求刑に対し、裁判所の判決は「求刑の7掛、8掛」と相場が決まっているらしい。求刑が懲役10年なら、判決は懲役7年か8年に落ち着くケースが多いからだ。こうしたことから検察が主導権を握っているのではないかと見る向きもある。

 

有罪になるまで争う掟の検察

 

99.9の有罪率ということは「無罪」判決を裁判所が出した場合、検察が必ず上級審に持ち込むことを意味する。日本は三審制をとっているので「地方裁判所」なら「高等裁判所」に控訴し、「高等裁判所」なら「最高裁判所」に上告する。有罪になるまで争うこれが検察のオキテなのだ。これは裁判官にはかなりプレッシャーである。下級審の「無罪」が、上級審でひっくり返り「有罪」になったとする。これはサラリーマンの世界で言えば、課長の出した企画書を部長がダメ出しして一から書き直すようなものだ。出世に響くこと間違いない。

 

こんなことも考えながらリーガル・エンターテイメントを観ていただけたらと思う。

 

 

※裁判官、検事、弁護士はいずれも司法試験に合格(最高裁は例外あり)して司法修習を受けている。法律の専門家である。憲法77条に「検察官は、最高裁判所の規則に従わなければならない」(二項)とあり、検察庁は準司法機関という見方もある。