雑誌を10倍楽しむ。興味津々の空港取材編

 

 

出迎え通路よりも奥に入る

記者は特別な場所に入る事ができたりする。その最たるものが空港取材だった。外国人タレント、凱旋帰国するスポーツ選手、ノーベル賞受賞者など、出迎えた大勢の客の前に登場する瞬間をよく見る。これは歓声を挙げる観客の反応も含めてニュース価値があるということだ。こうした場合、空港側がOKすればの話だが、飛行機から降りるところを滑走路から撮ることも可能だ。マスコミが殺到することを考慮して、空港側が出迎えホールの取材のみとしているのだろう。

 

 

羽田腕章、成田腕章は黄門の印籠なみ

空港取材は、雑誌の場合、「雑誌協会」(東京・お茶の水)に用意してある空港腕章をもらう必要がある。編集部にはいろいろなオタクが揃っているので、いつ、なん便、誰が来る、といった情報を掴んでいて教えてくれる。そこで雑誌協会の事務局に取材の申し込みをする。出迎えホールにあれだけ人が集まるところを見ると日本総オタク時代なのだろう。

「羽田腕章」「成田腕章」それぞれ20本ぐらいだったような覚えがある。つまり20人以上押しかけることはない。雑誌協会事務局が空港に連絡を入れ、こちらは協会に腕章を借りにいく段取りだった。

 

 

成田空港の決まり事

成田空港の取材は昼間の長距離なのでタクシーの運転手さんに喜ばれた。当時は「成田闘争」の影響で何回も検問を受けなければならなかったが、社旗を立て、窓から「成田腕章」を出すと、スピードを落とさないで検問を通過できた。

成田の国際線滑走路は日本であって日本でない。普通、パスポートを見せて「出国記録」のスタンプを押してもらう必要があるが、記者は空港公団のビルの通用門から中を通って、エプロンに出る事ができる。

空港取材は細かい決まり事がたくさんあった。成田空港の場合、ノズルから出てくるところはいいが、「動く歩道」(平面エスカレーター)に取材対象が乗ったところで追っかけは止めるという約束事があった。危ないそうだ。

 

 

カール・ルイス、マイケル・ジャクソンの思い出

記憶にあるのは1988年のソウル五輪のとき。アメリカの陸上選手団が時差調整のため、開催1ヶ月前から成田の運動公園でキャンプを張った。カール・ルイス、ジョイナー(故人)とスター選手揃い。到着時間は分かったが、チャーター機で来るという。定期便でないのでどこに駐機するかわからない。エプロンに降りて、空を見上げながら「アレかなあ」といった具合だった。機体の航空会社名で「コレだ」となり、滑走路脇のエプロンを走る。記者は身軽だが、カメラマンは重い機材をぶら下げている。空港は思いのほか広かった。チャーター機ながら大人数なのでバスが横つけされる。今度は、滑走路を、バスを追いかけ空港ビルまで走る。ヘロヘロになった。

成田空港から都心のホテルまで追いかけたのはマイケル・ジャクソン(故人)来日。車を車で追いかけるのは、刑事ドラマのようには上手くいかない事がよく分かった。羽田空港で思い出深いのは1989年昭和天皇崩御の際の弔問外交だった。いろいろな国の首脳専用機が舞い降りたのだった。