新聞・雑誌を10倍楽しむ。新入社員時代編
バブル前夜、ピカピカの社会人一年生
1981年、東京・大手町の新聞社から社会人としての人生が始まった。キラキラ光るビル群とキャピキャピ歩く大手町OLに圧倒されたのを覚えている。米国社会学者のエズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(79年刊行)で日本的経営を持ち上げ、対米貿易黒字は拡大、外国通信社からは日本車をハンマーで壊す写真が盛んに配信された。83年には浦安に東京ディズニーランドが開園、日本経済は怖いもの知らずの勢い。85年のプラザ合意で日本の一人勝ちに待ったがかかったものの、円高誘導による景気失速を恐れた日本政府は大幅な金融緩和を行う。いわゆる「バブル景気」の到来だった。
注目すべきは男女雇用機会均等法の施行(86年)だった。この法律の背景には女性の生き甲斐創出の側面もあるが、人手不足に陥った産業界が「手つかずの労働資源」を開拓したい思惑も見え隠れする。
「飛べないスッチー」たちの献身
新法施行5年前、新入社員になった。男性はいいとして、4年生大学を卒業した女子学生にとって就職は厳しいものだった。少数ながら採用があり、やり甲斐もありそうで、比較的待遇のよかったマスコミに人気が集まった。だから同期の女性は飛び抜けて優秀だった。いいところのお嬢様、一流大学、美人。男たちは彼女たちを「飛べないスッチー」と陰で呼んだ。エリカ・ジョング『飛ぶのが怖い』(73年米国、76年日本刊行)からのヒネリで、その清楚な立たずまいが却ってエロチックな想像をかき立てるという意味だ。
「生粋の田舎者」だったこちらは彼女たちが眩しかった。食事のマナー、話し方、立ち振る舞い、ファッションについて献身的に教えてくれた。感謝してもしきれない。いま考えると、どうにもならない男性中心社会の中で、自分の育てた「一人前の男」に夢を託したのではないかとさえ思えてくる。
「居酒屋では《お冷や》でもいいけれど、レストランでは《お水》って言うのよ」なんて言うのもあった。
「お母さまは信州でどうされているの?」。うちのオフクロを「おかあさま」と言う。
「山で炭(すみ)焼いている」と答えたら、コロコロ笑った。親のことを謙遜したジョークだと思ったらしい。結構正直言ったので困惑してしまった。
怖いもの知らずの転職
新聞社には大きなお風呂や薄暗い仮眠室、ビールの自動販売機など大人の魅力に満ちていた。ワイシャツにネクタイの記者、丸太のような二の腕をした印刷工の人たち、走り回る〈ボーヤ〉と呼ばれる学生アルバイト、キビキビした美人の受付嬢、いろんな人たちと交流があった。タクシーチケットをたっぷり仕込んで駆け回る生活も1年たった頃、ある出版社から週刊誌の立ち上げに参加しないかと誘われた。創刊雑誌の9割が1年以内に廃刊・休刊になる。雑誌がなくなれば居場所がなくなるだろう。日本経済と同じく怖いもの知らずの転職となった。巨大オフィスビルから雑居ビルに。でも夢だけが膨らんでいた。