テレビを10倍楽しむ。バラエティ・草創期編
評価が難しいバラエティ 番組
テレビの評論で何が一番難しいかといえばバラエティだろう。
新聞でも報道番組やドラマの評論を載せることがあるが、バラエティは皆無だ。
かつて編集長から「『オレたちひょうきん族』と『8時だョ!全員集合』について、笑いの違いを100行で書いてくれ」と言われ、悩みすぎて熱を出したことがあった。新聞・雑誌は原稿の分量を「行」で表す。100行は400字詰め原稿用紙3枚ちょっとだが、新聞では大特集、雑誌でもそこそこの特集記事の分量だ。特に「笑い」はセンスの良し悪しが問われるので書く方も勇気がいる。
元祖は「夢であいましょう」ヒット曲続々
バラエティ番組のヒットの条件は「コント」「音楽」「おしゃべり」の3要素で視聴者を満足させる水準にあることだと思う。長年、テレビを見てきてそう感じている。
さて、話はテレビ草創期に遡る。日本最初の本格的バラエティ番組といえば「夢であいましょう」(NHK1961-66)だろう。永六輔氏(故人)が台本を書き、黒柳徹子、坂本九(故人)、渥美清(故人)など壮々たるメンバーが出ていた。「こんにちは赤ちゃん」(歌=梓みちよ)、「遠くへ行きたい」(歌=ジェリー藤尾)、「上を向いて歩こう」(歌=坂本九)などのヒット曲は、永氏の作詞で、この番組から生まれている。
60年代前半は日テレ・バラの黄金期
この番組の影響を受けて民放の元祖・日本テレビで「シャボン玉ホリデー」(1961-72、76-77)が生まれた。名前は牛乳石鹸の一社提供からきている。日本の石鹸産業の伸長は著しく牛乳石鹸、ミツワ石鹸(後継=P &J)、花王、ライオンは、バラエティー番組を資金面で支えることになる。この番組は日テレの伝説的存在である井原高忠プロデューサー(演出は秋元近史D)が手がけた。植木等さん(故人)の「お呼びじゃない?」のギャグも生まれた。クレジーキャッツ、ザ・ピーナッツ、沢田研二ら、渡辺プロダクション擁するスターの独壇場だった。この辺りの時代が持つ雰囲気は、現在作家で、かつて「ヒチコックマガジン」編集長を勤め放送作家もされた小林信彦氏の「夢の砦」が詳しい。
「スター誕生!」は脱・渡辺プロ
井原プロデューサーは「11P M」(1965-90) 、「巨泉×前武 ゲバゲバ90分!」(1969-70、70-71)、 を作るなど日テレの一時代を作るが、のちに渡辺プロと決別する。渡辺プロ抜きでバラエティを作ることが事実上不可能になり、テレビ局員が下働きのようになってしまったことが原因ではないかと思う。日テレは「スター誕生!」(1971-83)を作ることによって、自前のスター発掘に躍起になっていった。
※次回もバラエティ番組についてお話しましょう。