テレビを10倍楽しむ。TVの寵児ケネディ編
伝記からテレビを学ぶ
TV業界を担当することになって、その影響力について勉強させられた。教材はJ・F・ケネディの生涯。アメリカ人だし、古いし、と思ったが、日本人で最近の人だと色々差し障りがあるらしい。何と言ってもアメリカはテレビ先進国なのだ。今年は米大統領選挙の年、ケネディの戦略には現在に通じるものある。
イケメン・美女はテレビの必須条件?
ケネディ はイケメンだった。ニクソンはそうでもない。これはテレビにとって最重要事項だった。1960年9月26日、第1回の大統領候補の討論会があった。テレビカメラが初めて入った。テレビ・ラジオで討論会に接した人は7000万人と言われる。ケネディ(民主党)は1917年生まれ、ニクソン(共和党)は1913年生まれ。4歳しか違わない。共に40歳代だった。白黒テレビの時代、淡い色はのっぺりしたグレーになってしまう。ケネディは濃い色のスーツ、ネクタイに白のシャツでメリハリをつけた。ニクソンは薄い色のスーツだったため印象に残らなかった。ドーランを塗ったケネディに対し、素顔のニクソンは顔汗が目立ってしまった。顔汗は討論の内容にかかわらず、言い込められているように見えてしまった。ケネディ大統領はテレビの寵児だったわけだ。
スタル、メイクが当落を分ける
ここで思うのはスタイリストとメイクさんの重要性である。昔、テレビ局に出入りしていると、女性アナウンサーとプロデュサーがスタイリストを付ける、付けないで揉めていることがよくあった。女性にとっては死活問題ということだ。男性アナウンサーもメイク室で化粧をしてもらっている。特にドーランを塗るとヒゲが目立たなくなる、照明の反射を防ぎテラテラしない、顔汗が抑えられるメリットがある。
第35代米大統領になったケネディ。毛色がちょっと変わっているとしたら、カトリック信者ということか。アメリカではWASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)が正統派とされている。
6・22は「宇宙中継」記念日
運命の1963年11月22日、ケネディ大統領は翌年に行われる大統領選のためジャクリーン夫人を連れ遊説のためダラスに入った。
一方、日本のテレビ界にとっても運命の日と言えた。東京五輪を翌年に控えて、日米間の「宇宙中継」実験が初めて行われる日(日本時間23日早朝)だったのだ。電波が届きさえすれば映像は平凡な砂漠の風景でも十分な筈だった。アメリカ大陸から上げられた電波は「通信衛星リレー号」を経由してKDD茨城宇宙通信実験所(現KDDI茨城通信センター)のパラボラアンテナに降りて来る。「リレー号」は約3時間で地球を1周する軌道だったため、日米双方から見える位置に来るのは1回20分程度だった。この間だけ使えるのだ。現在の通信衛星は赤道上3万6000キロ上空にあって地球と同じスピード回っている(静止衛星=地上から眺めると止まって見える)ため24時間いつでも使用可能だ。
この日、2回目の実験。「この電波でこのような悲しいニュースをお送りしなければならないのは誠に残念です」と毎日放送NY特派員の前田治郎記者(故人)がケネディ暗殺を伝えることになった。テレビの寵児ケネディの最期は「テレビ新時代」の宣言になった。
ボルトン前大統領補佐官が暴露本を出したことで、大統領選は混迷の度を増している。人柄よりも経済動向とは、これまでの傾向だが、コロナ禍でその点でも微妙になってきた。