テレビ・新聞・雑誌を10倍楽しむ。1989若気の至り編
肺炎ダウン中のデートがバレる
怒涛の如く過ぎた1989年だったが若気の至りも度々あった。
昭和天皇Xデープロジェクトが出来て2ヶ月ほどした時、あまりにも寒い中で走り回っていたため、不覚にも肺炎に罹ってしまった。1週間ほど戦線を離脱して、皇居の張り番はデスク(上席記者=編集者)に代わってもらった。この時、40度の熱を圧して彼女とデートした。これが会社にバレた。総務の女の子がアパートにメロンを持って見舞いに来たのだが留守で、不審に思ったらしい。この「感=勘」の鋭さもさることながら、人事の情報収集能力の高さはCIAを超えると感心してしまった。編集長に「おとなしく寝ていろ!」と怒られたが、ずっと出ずっぱりだったので情状酌量の余地ありとなったのだろう。またプロジェクトに復帰できた。
会報記事に上層部が噛みついた
昭和天皇崩御の後、マスコミの業界団体から体験談を会報に書いて欲しいと依頼があった。いかに過酷な日々だったか肺炎のエピソードも入れて欲しいと言う。大した枚数でもなかったので二つ返事で引き受けた。会社名も入って活字になったのだが「わが社の労務管理に重大な落ち度があったような印象を与える」と上層部がクレームをつけてきた。「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きているんだ」というセリフが流行ったのは、この10年後である。非常時にそんな呑気なことを言う人が多いはずもないと、おっとり構えていたら案の定うやむやになり、お咎めらしきものはなかった。
持久戦、紙も人も「生モノ」の難あり
美空ひばりの病状はなかなか掴めなかった。進行課長が「紙」を盛んに気にしていた。用紙は「生モノ」なので置いておくとヘタってしまう。雑誌の中央に綴じ込む作戦なのだが持久戦を覚悟しなくてはいけなかった。
病気の報道は難しい。そもそも極めてプライベートな情報なのだ。有名人と言え人格は尊重しなくてはならない。その上、命に関わる事となると「告知」をマスコミがすることになってしまう。だが、こちらでおさえても、他社が書いてしまうと、記者の立場が悪くなる。
6月23日は金曜日だった。同僚と連れ立って四谷・新道通りに繰り出した。テッペン(夜中0時)を越えて帰ったら、テレビが「昭和の歌姫逝く」(6月24日)と伝えていた。黒いスーツに着替え、タクシーをつかまえて目黒・青葉台のひばり邸に。すでに報道陣が集まっていた。やはり酒臭い人ばかり。梅雨の時期、小雨が降っていた。
またまた、次回に続きます。