中田四朗氏らによる志摩郡越賀村文書を用いた論文がほとんど唯一のものであろう (8)。
だがこれも史料紹介に主眼を置いたものであるため、越賀村では海女が江戸時代から熊野灘(下磯)や伊豆・房総(上磯)に出稼ぎに出ていたこと、そして明治 20 年代半ばからは北海道の利尻島、礼文島や朝鮮半島にまで進出した事実、それに出稼ぎの態勢についての情報を知りうるに過ぎない。
ここで問題としたいのは、出稼ぎの要因・背景、そして出稼ぎ先との関係である。志摩という良い漁場で生業を営んでいるにも関わらず、なぜわざわざ故郷を後にして出稼ぎに行ったのか。また、出稼ぎ先でも漁業権はあったと恩われるが、その地域とはいかなる関係にあったのか。海女は何の伝手もなしで出稼ぎに赴いた訳ではなく、彼女らを雇用する者、仲介する者が居た。志摩海女が出稼ぎに出た理由、海女と雇用者、出稼ぎ先との関係について、越賀村文書など在地史料に加え、農商務省や県の水産試験場などの行政文書、同時代の雑誌・新聞記事等をも利用し、時期的な変化も含めて検討を加えることとしたい。
一、志摩海女の近世と近代
1、江戸時代のアワビ流通と志摩の海女漁
海女の出稼ぎについて考える前提として、主な獲物のアワビが江戸時代にどのように流通していたのかを概観しておきたい。
海女漁に限らず、漁業は全般に収穫物を長く貯蔵することが難しく、利益を得るには販売先の安定的確保が不可欠である。そしてアワビは高価な贅沢品として幕府や藩の統制の対象となっており、アワビを加工した干鮑は、長崎貿易の重要な輸出品である「俵物」の一つでもあった。
このことは、一般に海女漁の獲物が自由な経済行為として販売することが容易ではなく、領主による撤しい経済政策の下に置かれていたことを予測させる(9)。なお、「俵物 」は他に鱶鰭(フカヒレ)、干海鼠(いりこ)があり、幕末には寒天も加わるが、鱶鰭以外は海女漁と関係が深いことも重要である。
だが志摩のアワビは、当時の一般のアワビとは異なる流通をしていた。
まず生のアワピは、参宮街道沿いの津、名古屋、熱田(宮)、そして多くは伊勢の河崎に出荷される。河崎は米問屋や魚問屋が建ち並ぶ商人街で、伊勢神宮門前町の食物流通の拠点であった。全国から参宮に訪れる旅人たちは、次の参宮客を呼び込む一種の戦略から伊勢の御師宅で豪勢な御馳走を振る舞われるが、そのーつとして、アワビが盛んに供されたのである(10)。
江戸時代の伊勢神宮領において生のアワビ以上に重要なのが、干しアワビを熨して製造した熨斗鮑である。熨斗鮑は中世以来、領主層の贈答品として珍重されたが、近世に入り特に伊勢神宮世界で盛んに用いられるようになった (11)。象徴的には伊勢神宮に儀礼時の神饌として献上され、また神宮から領主層への儀礼的贈答に用いられたが、量的にはるかに多いのが門前町の宇治・山田の熨斗屋を通して伊勢神宮の神官である御師に売却される分である。彼ら御師は、全国を廻って民衆に参宮を呼び掛けるが、熨斗鮑はその際に持参する代表的な土産の一つで、あった。
中田四朗氏は、江戸時代に年間140万本もの熨斗が生産されたと推定しているが、これは原料として 383トンの生アワビを要する量にあたり、アワビ3個で1キロとすれば約100万個となる(12)。志摩全体で近年のアワビの漁獲高は年間100トン以下、数十年前でも3~400トンであるから、この
-38-(38ページ終了)