数字がいかに大きいかが分かる。中田氏が強調されるように、熨斗鮑を媒介として志摩海女と伊勢神宮の御師とは密接に結び付いていた。江戸時代の志摩海女の生業は、伊勢神宮に近接していたがゆえに、俵物としての統制を免れ、確実で安定した販売先が確保されていたのである。
2、テングサ漁の展開と紀州藩
江戸時代後期には、海女の主要な獲物としてテングサの持つ比重が増加する。テングサは水と共に煮詰めてところてんを作り、冷寒地で乾燥させて寒天に加工するが、この技法が江戸時代の日本で始まり19世紀半ばには各地で生産が行われる。だが、江戸時代はもちろん明治期にも、寒天の製造を行うのは世界中で日本だけであり、そのため幕末以降、海産物としては干鮑などと並ぶ重要な輸出品となった。
志摩に隣接する紀州藩(和歌山藩)は、江戸時代中期以降、領国内の産物に専売制を敷き、テングサもその対象になった。藩によって集荷されたテングサは主に摂津国の寒天製造業者に送られ、加工後に大坂商人に売却され、長崎経由の中国輸出品となった。紀州藩は天保9(1838)年には伊豆や房総でもテングサの仕入れを開始し、幕末維新期には志摩を治める鳥羽藩や高知・土佐藩にも共同で専売を行うことを働きかけている(13)。
テングサの商品価値が高まるなかで、紀州藩に限らず、その採取権の代償に運上金を賦課することが一般化してしていく。詳細な報告がある伊豆国沼津藩領の村について見ると、運上金上納は当初は浦村が請け負ったが(浦請)、藩は収益を上げるために、この権利を入札に掛けるようになる。ここで活曜したのが「請負人」と呼ばれる商人たちで、落札してテングサを集荷・販売する権利を得た(14)。期聞が限られるなかで収益を上げるため、彼らは技術の高い出稼ぎ海女を雇うことも多かったであろう。テングサ需要の増大、紀州藩の専売制施行に象徴されるような諸藩による経済政策が、江戸時代後期に志摩海女の本格的な出稼ぎを促したのではないかと思われる。
さて明治政府は、神社神道、特に伊勢神宮を国の宗教政策の中枢に据えて、その権威化を図る。その政策の一環として明治4(1871)年に御師制度は廃止され、伊勢神宮門前町の御師たちは全員職を失した。その結果、御師を通した熨斗鮑の大量の需要がなくなったのである。明治以降、志摩でも粕鮑や明鮑・灰鮑等の加工品製造が始まるが、これはその対応でもあったであろう。伊勢におけるアワビの需要が激減して志摩の海女漁は大打撃を受けたはずなのだが、志摩の漁村文書にそのような形跡はない。言うまでもなく、アワビ以上に収益が上がる獲物、テングサがそれに代わっていたのである。
明治政府の農商務省は、昆布やニシン、スルメなどと共に、テングサを加工した寒天を、中国への最重要品の一つに位置付けている。中国で寒天は、甘味や中華料理の高級素材として、特に経済的に高い階層で人気を集めていた。農商務省農務局が明治28(1895)年にまとめた『輸出重要品要覧水産之部寒天~(15)によれば、明治26年の寒天輸出額は1,452,728斤、682,140円にのぼる。翌年は日清戦争の影響で数量が1割ほど減じるが、うち9割5分以上が中国と香港に輸出されたものであった。ちなみに明治元年の中国向け輸出量は247,257斤、62,679円であったが、明治19年には1,544,470斤、392,817円と約6倍となっており(16)、維新以降急激な増加を遂げていることが分かる。
寒天の使用法としては、「種々ノ料理ニ供用セリ、殊ニ偽作燕窩トシテ貴重ノ食饌ニ供
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