小塚原処刑場

 

少し重い話です。

 

僕はオカルトが大好きですが、霊感なんぞないため、不思議な体験をあまりした事は無いです。

また変なものを見てしまったこともありません。

これまで出会った登山での石妖、松島の白いワンピースの女性は本当に人間だったと思うし、

この場所はまずいぞ!と、怖い思いもした事も無いです。

ところがある場所だけ、明らかに何かが違うと思った場所があります。

今回はそんな話。

 

僕が昔から使っている電車は高架を通っているため、街を見下ろすことができます。

途中から地下鉄に入るのですが、それまではずっと地上を走っています。

その電車からいつも気になってみていた地蔵がありました。

地蔵と言ってもかなり大きく、子供の頃からよく見ていました。

中学生くらいになった頃か、その地蔵を調べてみました。

「首切り地蔵」

どうも変な名前です。

そしてその地蔵は延命寺と言うお寺に鎮座しております。

もう少し調べてみました。

するとそこは江戸時代の処刑場跡で、小塚原処刑場だったという事が分かりました。

("こつかっぱら" と呼ばれている)

こんなところに処刑場があったとは。

そして処刑される人を見守る地蔵が”首切り地蔵”とは何と皮肉めいた名前でしょうか。

 

詳しい歴史はあまり書きませんが、当初本所にあった処刑場がどんどん北に向けて移動し、

現在の場所に落ち着きました。

江戸時代を通して処刑が行われ、明治12年頃までは処刑が行われていたようです。

処刑された人は20万人とも言われ、磔、斬罪、獄門等で処刑されています。

またおためし場としても有名で、山田浅右衛門が試し切りを行っていたのもこの場所です。

当時遺骸は見せしめのため、通りに面して首や磔がさらされており、また胴体も深く穴を掘る

事もなく、適当に埋められていたようです。

江戸時代の小塚原処刑場の様子。通りに面して処刑場があったことが良く分かります。

端に首切り地蔵があります。真ん中にはさらし首が置かれており、向かって右端には遺体を処理する人達です。

日本堤、吉原、上野、東叡山の地名も見ることができます。

 

北は小塚原があり、それを過ぎると花街である吉原があります。

南は鈴ヶ森処刑場があり、品川宿に花街がありました。

江戸に入ってくる人達はこの生と死を目の当たりにします。

ある意味結界であり、江戸で悪さをするとここで処刑するぞ、と言う戒めでもあります。

江戸幕府はそれを十分意識して設置していたと思われます。

(西は八王子の大和田処刑場。花街は内藤新宿かな?)

 

明治8年ごろには解体新書の内容を確かめるため、杉田玄白らが解剖に立ち会った場所でもあります。

江戸時代末期か明治の頃の写真。良く残っていてくれたと思います。

 

さて、そんな元処刑場だった小塚原は、南千住と言う駅にあります。

ここに降りると、何故か重苦しい空気を感じます。

おそらく歴史を理解して上なので、余計にそう感じるかもしれませんが、駅のフォームに立った

瞬間からそのように感じてしまいます。

圧倒的です。

駅の階段を下りて道路を渡り、電車の高架下を通ると延命寺が現れます。

近代的な建物で、特に怖さとか変な雰囲気はありません。

空気が重いだけ。

大きな首切り地蔵にお参りし、処刑された人々の供養を口にします。

寺を出て、道沿いに戻ると今度は回向院へ向かいます。

回向院は元々本所にありましたが、子院別寮として分かれてここに存在しています。

なお、回向院は明治38年頃に土浦線行工事の為に分断されてその後、昭和57年に回向院から

分離独立して延命寺が開山しています。

回向院には当時処刑された方々のお墓があります。

“処刑”という事もあって、時の政府に歯向かった政治犯のお墓が多いのも特徴です。

吉田松陰、頼三樹三郎、相馬大作、雲井竜雄、2.26事件の叛乱軍の指揮を執った磯部浅一など

国事に倒れた志士のお墓があります。

鼠小僧次郎吉、片岡直次郎等のお墓もあります。

また”吉展地蔵”もあり、更に気分を重くします。

ここも重い、やりきれない歴史の詰まった場所ですね。

吉田松陰のお墓。”吉田”が分解されて刻まれているのは何とも意味深いですね。

 

ここは変な興味を持って訪れてはいけない土地だと思います。

呪いとか、祟りがあるから、と言うわけではありません。

20万人と言われる処刑者がこの場所で亡くなったという事実を受け入れるとそのような

不遜な考えは思い浮かぶことすらありません。

歴史を正しく認識し、歴史が刻んだこの重い空間を感じ、考えることが大事です。

歴史を今の価値観で判断することは必要ありません。

ただ、黙祷するだけで良いのだと思います。

 

3.11の地震があった時、この首切り地蔵がずれて崩れてしまいました。

石を重ねた構造の為です。

1年ほど経ってようやく修復されたのを電車の中からうれしく思って眺めていました。

最近は電車に乗ることもなくなったので、ご無沙汰しています。

涼しくなったらお参りに行こうかな。

現代の首切り地蔵と延命寺(右手の白い建物)。

お墓の分譲販売が行われていたり、昔の面影はもうありません。

歴史の重みを嫌でも感じる場所です。

 

おまけ

延命寺を南に進むと泪橋があります。

ここは罪人と親族との別れの場。"あしたのジョー"の舞台ですね。

さらに南に行くと右手奥に吉原、その横には非人頭の車善七の居住地と病人等の保護を行う溜、

更に南下すると左手に穢多頭の浅草団左衛門の居住地がありました。

ある意味、南千住から浅草まで、この辺りは歴史から封印されてきた土地なんですよね。

歴史の暗部です。

それ故に開発も中々されず、大きな背の高いマンションも殆どありません。大きな資本が入らないのです。

土地が歴史を記憶しています。

泪橋付近に立つ矢吹ジョー。

橋はとっくに無くなっており、川も埋められたか、暗渠に隠れており、跡形もない。

 

吉原は今でも通りからくの字に曲がって入っていきます。区割りも昔の四角いままです。

江戸時代は堀もあり、北から攻めに対して要塞として機能させる準備がありました。

車善七の居住地は跡形もないですね。

非人は解放令で全国に散らばったこともあるのでしょう。

因みに団左衛門の居住地の一部は現在浅草高校になっています。

彼らは革製品の加工技術に長けていたため、その技術を生かすため、アメリカ人から教えを請い、

日本初の軍靴を作っていました。

一族郎党を食べさせる必要があったのでしょう。

工場は王子にありましたが、今度の一万円札の顔になる渋沢栄一に売ってしまい、結局

浅草に戻ってきていましたが、事業がうまくいかず、その後倒産したようです。

浅草高校にも居住区であったことを示すものは何一つありません。

同和解放同盟が文句を言いかねませんからね。(今はあまりうるさくないみたい)

寝た子を起こすなという言い方がありますが、隠すよりも正しい認識を学ばせることが大事だと

思います。

一度歴史から消えると中々表に出てこなくなってしまいます。

穢多・非人に関しては我々日本の歴史の一部として欠かせない存在であり、それを隠す必要は

全く無いと思っています。

 

おまけ2

LGBT問題はかつての同和解放運動と全く一緒で、そこには利権が絡んでいます。

人権は儲かるんです。

ある意味人の良心につけ込むとても醜いやり方です。

今回のLGBT理解増進法の可決は自問党内の特命委員会の多数の意見が無視され、

これまでの議員立法の可決ルールであった満場一致も無視して成立させました。

アメリカ民主党の意向が強く働いたのは間違いありませんが、この利権に貪ろうとしている人達が

多く背後にいることを忘れてはいけません。

LGBTの少数派の方たちを守る事には同意しますが、彼らを善人ぶって利用する奴らを

絶対に許してはなりません。