私は音楽を聴くのが好きだ。主に聴くのはロックだが、中でもヴォーカルが入っているものにほぼ限られる。
インストゥルメンタルはあまり聴かない。インストゥルメンタルにはあまり確かな存在感というものが感じられないからだ。何というかインストゥルメンタルというのは空気みたいな感じがして、何か別のことをやっているときにバックグラウンドに流れていればいい…という風な感じ。正面切って向き合って聴くのはちょっとつらい。
だけどヴァンゲリスは違った。

私がヴァンゲリスを初めて聴いたのは映画「炎のランナー」のテーマ曲「CHARIOTS OF FIRE」だった。
「炎のランナー」といえば言わずと知れたヒュー・ハドソン監督のアカデミー賞受賞作。ある日いつものように映画館で映画を観始めるとあの曲が流れて来た。機関車のシュッ、シュッ、シュッという蒸気音を思わせるようなリズムが単調に続くかとおもうと美しいメロディーが入ってきてそれが繰り返される。ずっと聴いているとチャリオット(古代の戦車)が疾走しているさまが本当に想像される。それが若者たちが砂浜を走るシーンにかぶさってきていきなり映画に放り込まれた。

「炎のランナー」の内容はオリンピックを目指す陸上の選手たちの物語だが、我々凡人には理解するのが困難なトップアスリートだけが持つ苦悩と克服がテーマとなっている。
ある選手などは走るモチベーションについて「私は神様のために走っている」などと私には到底想像もつかない理由を挙げたりしている。
最近のアスリートがよく使う〝ゾーンに入った〟という表現も史上初めて視覚化して見せてくれた。共感できるかといえばそれはなかなか難しいが、深い内容でアカデミーにふさわしい物語だった。
ただアカデミーを受賞した理由の大きな要素としてヴァンゲリスの名曲の存在は欠かせないと思う。幾度も繰り返されるメロディーや前へ前へと後押しするような力強さは一度聴いたら忘れられない。

ヴァンゲリスと映画との関りは深く他にも多くの名曲がある。
日本の映画でも「南極物語」に曲を提供している。南極で繰り広げられるカラフト犬タロ・ジロの実話をもとにした物語だった。
本当に南極の冷えきった空気の中にいるような氷のように透き通った曲調で、美しいメロディーが映画と完全にリンクしていて映画の格を一段高めてくれた。

映画「ブレードランナー」にも数々の名曲を提供している。 
「ラヴテーマ」は人かレプリカント(アンドロイド)か判然としない謎の女レイチェルとのラヴシーンでかかる曲。文字通りというわけではないがセピア色を感じさせるシーンで流れる甘美なこの曲は未来世界なのにサックスがノスタルジーを演出する。主役のデッカードとレイチェルがお互いためらいがちに愛を認め合うこのシーンをよく表現したバラードで、終わり近くには何やら不穏な事が起こりそうな予感を抱かせる表現も挟んでいる。
「エンドタイトル」は緊張感と疾走感が全体にわたって継続し続ける。映画のテーマに沿って先の見えない不安感を見事に表現していた。
「ブレードランナー」は同じハリソン・フォードの主演で、リドリー・スコットではない監督で続編「ブレードランナー2049」がつくられた。ブレードランナーの世界観をそれなりに表現していたとは思うがどうしても〝違うこれじゃない〟と感じてしまうのは音楽にヴァンゲリスが参加していなかったからだ。
ブレードランナーとヴァンゲリスは切っても切り離せない。あの世界観の半分はリドリー・スコット、もう半分はヴァンゲリスが背負っているのだ。
ヴァンゲリスの映画音楽は他にも「1492コロンブス」や「ミッシング」などがあり、それぞれに美しい。

ヴァンゲリスは映画以外にもオリンピックやサッカー・ワールドカップなどの巨大イベントにも縁が深い。
1996年のアトランタ・オリンピックの公式テーマとして「炎のランナー」と「コロンブスのテーマ」が選ばれている。
また2000年のシドニー・オリンピック開会式では音楽監督を務めているし、そもそも「炎のランナー」の挿入曲にずばり「FIVE CIRCLES(五輪)」という曲まである。
日韓共催の「2002FIFAワールドカップ」はどこかの国に大会を汚されたようであまり良い思い出はないが、救いはヴァンゲリスが大会のアンセムを作ってくれたことだ。期待を裏切らない素晴らしい出来映えで、和太鼓を印象的に使うなど民族文化のアイデンティティもちゃんと取り入れてくれて躍動感のある美しい曲を残してくれた。

と、このようにヴァンゲリスの音楽は(原則として)ヴォーカルが入っていないにもかかわらず、心を捉えて離さない印象的なメロディーが強く存在感を主張していて、聞き流すような聴き方などとてもできない。正面から向き合って、何だったら正座して聴くべきだとまで思える。
彼がいまやこの世に存在しないのはとても残念なことだ。

ヴァンゲリスの新曲を聴く機会はもう二度と訪れないのだから。

せめてその代わりに時代を遡って、かつてヴァンゲリスが在籍したというロックバンド「アフロディーテズ・チャイルド」のアルバムでも聴いてみることにしようか。