前回「バック・トゥ・ザ・フューチャーpart2」の項で書いたように一旦終わったストーリーに続きがあるような含みを持たせていても、映画の続編というのは一作目が興行的に成功しない限り作らせてもらえない。
その点で「バック・トゥ・ザ・フューチャー」一作目で監督ロバート・ゼメキスはよっぽど出資者の信頼を勝ち取ったんだと思う。二作目どころか三作目まで一度に作らせてもらえた。通常は映画一本ごとに観客の反応を見て判断するものだからだ。
というわけでゼメキスは制作判断の心配をすることなく〝part2〟の制作に手を付けられた訳だがその時すでに〝part3〟のラストまで頭の中では出来上がっていた。つまり〝part2〟と〝part3〟は合わせて一本の作品を前半と後半に分けて公開するようなものだったのだ。だからその内容、エピソードが〝part2〟と〝part3〟で濃厚にリンクしている。続編が何の矛盾もなく成立するのは2作同時に制作できたからだろう。
こういう制作背景があったおかげで〝part2〟のラストでは「ェえええ?!」と思うほど観客を突き放していてもゼメキス監督は平気でほくそ笑んでいたに違いない。その直後にすかさず〝part3〟の予告編を挿入して観客の〝続きが知りたい気持ち〟をフォローしていたからだ。
こんな事情から〝part2〟と〝part3〟はそれほどタイムラグなく公開されたので早く次が知りたい観客は〝part3〟の映画館に殺到した。
〝part3〟の始まりは〝part2〟の終わりからそのまま繋がっていた。〝part2〟の終わりで嵐の中現れた見知らぬ男が手渡した手紙は1885年に飛ばされたドクからのものだった。何十年も郵便局に保管されていた手紙は指定された日時にマーティに渡されるよう代々受け継がれていた。その手紙によるとドクはその時代に鍛冶屋をやっており、デロリアンは墓地のそばの廃坑に隠したという。墓地ではドクの墓を見つけるが墓標によると1885年の9月に銃に撃たれて死んだとある。マーティはそのデロリアンを見つけ出し、ドクを救うために1885年に向かう事になった。

ネイティブアメリカンの観光パークで西部劇風の衣装を買い揃えたマーティはいよいよパーク内の塀に描かれたネイティブアメリカンの絵に向かってデロリアンを走らせる。ぶつかる!と思った瞬間、時間を越えて1885年に現れた。すると目の前にはパークの絵と同じように馬に乗ったネイティブアメリカンの集団が向かってくる。巻き込まれたマーティはほうほうの体で近くの廃坑にデロリアンを隠すが、気が付くと燃料タンクを矢に射抜かれてガソリンが漏れ出てしまっていた。ガソリンがまだ存在しない時代から如何にしてマーティは現代に戻ってくることができるのか?というのが今回の物語の中心になる。


このあとマーティは自分の祖先のシェイマスとその家族に助けられ、ドクとも再開することになる。マーティはドクの命を奪うことになるビフの祖先ビュフォード・(マッドドッグ)・タネンと所どころで衝突しながら最後は決闘するはめとなった。その間に峡谷から馬で落ちて死ぬはずだった新任の女性教師クララ・クレイトンを助けたドクは恋におちる。今回はドクにとって生涯二度と出会う事もないだろう、すべての面で理想的な女性とのラヴ・ストーリーでもある。
〝マッドドッグ〟タネンとの決闘にも勝って現代に戻るのにマーティとドクが選んだのは機関車だった。ガソリンが無く自力で走行できないデロリアンを機関車で押してタイムマシンが作動する時速88マイル(140キロ)を稼ぎ出そうとしたのだ。機関車にとってはギリギリ出せるか出せないかというスピードである。ドクが作った三つの特殊燃料が順次点火するたびに機関車は衝撃を受け悲鳴を上げる。クララと身を引き裂かれる思いで別離を決めたドクとマーティが二人で現代に還ろうとしているところに突然クララが現れる。機関車に飛び移ったクララの命を守るためにドクは現代に戻ることを諦め、マーティはひとりデロリアンで現代へ戻った。
無事1985年に戻ったマーティはトヨタの4WDでジェニファーと念願のキャンプに向かう途中、2015年にマーティを失業に陥れたニードルズと出会う。ニードルズにチキン(臆病者)と言われ、載せられたマーティはチキンレース(どっちが勇敢か競うレース)をする羽目に…だが今まで経験したことの反省から冷静さを取り戻したマーティは寸前のところで思いとどまった。
そのまま続けていたら事故に会ってギタリストになる夢を諦めなければならなかったところだ。
そこに突然ドクとクララが現れた。今度は機関車のタイムマシンだった。ジュールとヴェルヌという二人の子どもを紹介すると変形した未来の機関車のタイムマシンで再び去っていった…

さて、今回も伏線やお遊びたっぷりの作品となっているのでごく一部だが紹介しよう。

廃坑内でドクは少年の頃ジュール・ヴェルヌを愛読していて「海底2万マイル」を読んで科学者になろうと決心したと語った。このあとクララと出会い恋に落ちるときにクララも愛読書がジュール・ヴェルヌだったというのが縁になった。

廃坑内で故障したデロリアンのパーツのICチップを見てドクはやっぱり〝メイド・イン・ジャパン〟だと嘆くが、それを聴いたマーティが〝メイド・イン・ジャパン〟は最高だぜと返す。
ドクが住んでいた1955年の日本製の評価とマーティが住んでいた1985年の日本製の評価が180度違うところで笑わせてくれる。

マーティはタイムトラベルの直後にネイティブアメリカンの集団が向かってくるが、その時1作目でリビア人テロリストに追われて叫ぶ「リビアァン!」と同じ驚愕の表情で「インディアァン!」と叫ぶ。現在の字幕では差別用語となるため「ネイティブアメリカン!」となっているがその当時は「インディアン!」で何の問題もなかった。

ネイティブアメリカンに追われ、牧場の柵に頭をぶつけベッドで気が付くと〝お約束の〟自分が思っているのと違う〝ママ〟に起こされる。この牧場はシェイマス・マクフライの牧場で今回の〝ママ〟はシェイマスの妻マギーだった。

西部開拓時代のヒルバレーではちょうど〝あの〟時計台が建設中で、それを記念したお祭りが開かれていた。そこで音楽を演奏していたのは〝ZZトップ〟で映画のテーマ曲も担当していた。一作目の〝ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース〟と重なる。

祭りでは本物の拳銃を使った射的が行われているが、マーティはそこで見事な腕前を披露する。〝part2〟では子ども達の前で同じようにアーケードゲームで拳銃の腕前を披露した。
その時マーティの腕前に惚れた銃のセールスマンがビフとの決闘用にプレゼントした新作の銃が昔の西部劇では定番だった〝コルト・ピースメーカー〟だった。往年の映画ファンはニヤリとしたはず。

祭りの治安を維持していたのは一作目、二作目にも登場したストリックランド先生の祖先、ストリックランド保安官だった。
祭り会場でドクを殺そうとした〝マッドドッグ〟タネンを阻止したのはマーティの投げたフリスビー・パイの焼皿だったが、現代の遊具フライイング・ディスクがフリスビー・パイの皿を投げ合って遊んだのが始まりというのは割と有名な話。

マーティはまたしても腰抜けと言われてタネンと決闘する羽目になったが、今回は〝チキン〟ではなく〝イエロー(腰抜け)〟という言葉だった。時代によって同じ意味でも使われる言葉が変わるのだろう。

昔の西部劇では「踊れ!」と言いながら足元に銃弾をバンバン!と打ち込むシーンもよく目にした。今回もマーティはタネンにこれをやられるが、良く解からないマーティが云われるままにマイケル・ジャクソンのムーンウオークを披露するのは爆笑した。

タネンとの決闘におもむくマーティが映画「荒野の用心棒」のクリント・イーストウッドを真似た格好だったので予想はついたが、胸にストーブの鉄製の扉を仕込んで、撃たれて死んだと思わせておいて実は無事だったというシーンは一作目のドクがテロリストに撃たれるシーンのマーティとドクの立場を入れ替えた裏返しになっている。ちなみに〝part2〟でビフがTVで観ていた「荒野の用心棒」のシーンはここへの伏線。

本当はクララ・クレイトンが転落死するはずだった峡谷はクリント・イーストウッドを名乗っていたマーティが転落することになったので、歴史上「クレイトン峡谷」と呼ばれるべきだった所が現代では「イーストウッド峡谷」と呼ばれている。

最後に登場したドクの最新型のタイムマシンが機関車型で、古いディズニー映画「海底2万マイル」のノーティラス号の雰囲気を持ち、変形すると往年の映画「チキチキバンバン」のスーパー自動車チキチキバンバンに酷似しているというのも付け加えておこう。

〝part2〟でドクが「西部開拓時代に行ってみたかった」と話していたのは実はゼメキス監督自身が「一度は昔懐かしい西部劇を撮ってみたかった」…に違いない。
ゼメキスは実に気持ちよさそうに伸び伸びと映画を作っている。現在の映画はポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)に縛られてほんの些細な差別的表現も許されない窮屈なものと化しているが、この映画はもっとおおらかだった時代の古き良き西部劇を目指している。ジョン・ウエイン主演の「駅馬車」や「黄色いリボン」、それにもっとアクが強く娯楽性の高いクリント・イーストウッド主演のマカロニ・ウエスタン「荒野の用心棒」などだ。
 

単純な勧善懲悪のドラマは肩が凝らなくていい。
アメリカの歴史的事実として先住民が暮らす大陸を新大陸と称してヨーロッパ人が侵略したという事をちゃんと教育していれば、単なる娯楽作品に目くじら立てる必要は無いと思う。そういうことを問題提起した映画は他にちゃんとあるし。

…というわけでゼメキス監督が古き良きオールディーズの50年代から未来世界、そして往年の西部劇とやりたかったことを全部やり切ったこのシリーズは3部作としては稀有な、残念な作品がひとつもない奇跡的に完成度の高い出来となった。
個人的な私の映画ランキングで「バック・トゥ・ザ・フューチャー」3部作は〝最も好きな映画部門〟のオールタイムベストをジョージ・ルーカスの「スターウォーズ・サーガ」6部作と競い合っている。