また別の日のこと。
半世紀以上前にカレンダーの写真で見たあのマッターホルンに、ついに向かうことになった。

一度行ったことがある妻がその姿に感動してどうしても連れてってあげたいと言っていた山だ。いいカミさんに恵まれた。
 

たっぷり楽しませていただいたグリンデルワルトから鉄道でマッターホルンのおひざ元ツェルマットへ向かう。

乗った列車からは何度か川の流れを見たが、いつも灰色。

風光明媚なスイスで最も残念だったのはアルプスを源流とする川の色。日本のような青々とした美しい澄んだ川はひとつもない。不透明な灰色をしている。おそらくアルプスの岩盤中を通る時に岩を削ってその成分を大量に含んで流れているのだろう。ヨーロッパの飲料水が硬水だというのもたぶんこのせいだと思う。

 

途中インターラーケンで乗り換えるのだが、この時ふとスイス鉄道の乗務員のユニフォームに目がいった。マムートのロゴが付いている!「マムート」とはご存じの方もいると思うがスイスのアウトドア用品ブランドでマンモスのロゴマークで有名。日本で買うとけっこう高い。どうやらスイス鉄道の職員の衣類はマムートが供給しているようだ、うらやましい。

この日も好天気の中列車は走り続けてツェルマットへ到着。

駅を出るとなんと馬車が走っている!この街は自然環境を守るためガソリンやディーゼルエンジンの自動車は禁止されている。だから自動車であれば電気自動車、そうでなければ馬車が現役で走っているわけだ。
 

このまま徒歩でツェルマット滞在時のホテルへ向かう。途中、街の中を流れる川の橋に出ると右手におお!マッターホルンが見える。頂上付近にほんの少し雲がかかっているが、今までに幾度となく写真で見たあの角度のまま…ついに来たのか。嬉しくて何枚も写真を撮る。その後ほどなくしてホテルに到着。部屋に入って窓を開けてみるとびっくり!小高いところにホテルがあるせいか窓の正面にバーンとマッターホルンが!間にさえぎる建物もなく全部見える。まさにマッターホルンビユーの部屋をホテルが用意してくれていた。

今回の旅で最高のマッターホルンの写真は、実はこの翌日の夜明けにこの部屋から撮影した一枚だった。

 

さて、その朝からさっそくマッターホルンへ向かう。

まずめざすのはクラインマッターホルン…マッターホルンが間近に見える展望台があるところ…以前にカミさんが一度行ってとても良かったという。カミさんの案内でツェルマットの街を突っ切りロープウェイ乗り場に着く。

四人乗り位の中型のゴンドラに乗って粛々と上っていく…相当上ったなあと思ったところで一度乗り換える。今度は二十人ぐらいは乗れそうな大型のゴンドラ、しばらく乗っていると終着駅の手前で突然クライマックスがやって来る。

 

何もない崖に向かって止まる様子もなくゴンドラはグイグイ進む。目前に断崖が迫ってきてぶつかる!と思った瞬間すごい急角度で勾配を一気にひっぱり上げられる…そこからはまるでエレベーターに乗ってるみたいだった。

クラインマッターホルンに到着すると展望台に上がるが、カミさんが言ってた通り間近にマッターホルンが見える。ただ、見える角度が違うのでよく目にするあの姿ではない。そしてパノラミックな展望台にはなぜか十字架にかかったキリストの像が置かれていてこの日も青空をバックに映えている。

ところでカミさんに聞いた話だがマッターホルンの頂上にかかる雲は天気が良くてもなかなか取れないらしい。この日も天気が良く、始めはほんの少し頂上に雲がかかっていたけれど、私たちの願いがイエス様に通じたのかやがて消えていった。

 

しばらく展望台からの眺望を満喫して私たちは階段を降りていった。クラインマッターホルンは山の上なのでアルプスの例にもれず草木は一切無い。足元に石くれがあったので拾ってみたら緑がかった灰色で薄くはがれやすい…片麻岩とかいうやつかな…記念に持ち帰ることにした。どこかを工事中なのか展望ビルの横に重機が置いてあってやや殺風景だった。この日は風が強く、肌寒かったので屋内のカフェでコーヒーブレイクを取る。クラインマッターホルンを充分に楽しんだ私たちはこの後ロープウェイでツェルマットまで戻る。
 

ツェルマットのロープウェイ乗り場でゴンドラを降りた私たちは町の中心部に向かって散歩がてら歩き始めた。そう広くない道は両側に木々があり、涼しくて歩くのが心地よい。道の右側下り斜面に大きな切り株があり、若い中国人の娘がふたり、その切り株に座ってポーズをとっているのを尻目に歩いていると小さな民家の前を通った。民家の前には花が飾ってあった。うっかり見過ごすところだったがよく見ると銀白っぽくてけば立っている…

なんとエーデルワイス!山を歩くたびに道の傍らを探し続けたのに見つからなかったあのエーデルワイス!こんなところで会えるなんて…しばらくの間、本当にエーデルワイスなのかガイドブックの写真と突き合わせて確認した。

後で知ったことだが、今やスイスでも山に自生するエーデルワイスはどんどん減少していてなかなかお目にかかれないということだ。あのエーデルワイスはきっと園芸種だったのだろう。でもスイスで映画「サウンド・オブ・ミュージック」にも歌われたエーデルワイスを見たいという密かな目標は達成できた。
 

ところでスイスのホテルやシャレーや民家の窓には花が飾られることが多い。こういう写真を見て「スイスはお花いっぱいで素敵」と勘違いしてしまう人が多いが、スイスは標高が高いためむしろ花は少ない。せいぜい瘦せた土地や寒い気候でもなんとか育つ高山植物が自生するくらいだ。スイスに比べると温暖で水の豊富な日本は国中花であふれているし、わざわざ植えなくても道ばたには野草が生い茂っている。高山植物に限ってもスイス並みかそれ以上あると思う。だからスイス人はむしろ少ない花々を大切に窓辺に飾っているんだと想う。
 

その日一度ホテルに帰ってからお土産に有名なスイスのチョコレートを買おうとツェルマット駅前にある商店街に来た。その日指のつめが割れてどうにも不具合だったので、ついでにお土産屋さんにあるヴィクトリノックスの売り場でつめ切りを探した。スイスアーミーナイフで知られたヴィクトリノックスなら良いつめ切りがあるだろうと思ったからだ。スイスアーミーナイフのショーケースを覗くとたいていは日本でもふつうに買えるものばかり。特に欲しいものもないのでつめ切りを探すが置いてない、振りかえってちょっと違う売り場へいくと、あ、あったあった旅行にも持っていけるつめ切りが。たたむとコンパクトにぺったんこになるやつ、日本では見たことがない。値段も手ごろだし買ってさっそく使ってみた。いや、よく切れるしやすりも精度が高い、さすがヴィクトリノックスだ。この旅行の後も旅のお供として必ず持ち歩いている。
 

また別の日のこと。
マッターホルンを別の展望台から見るためにホテルから程近いゴルナーグラート鉄道の始発駅まで歩いた。ゴルナーグラート展望台まで一本でいける便利な鉄道だ。キップを買って電車に乗り込みさっそく出ぱーつ!

 

街並みを抜けると山の斜面を力強く上っていく。ずーっと見晴らしのいいところを通るので気持ちがいい。向い合わせ4人掛けの席にカミさんと横並びで座る。向かいの席には外国人の老夫婦、なーんて自分らだってここでは外国人だし、ぜんぜん若くもない。

しばらく静かに車窓からの景色を眺めていたがなんとなく居心地が悪い。海外では機会があれば外国の人とコミュニケーションをとるのもいい想い出になるので、思いきって英語で話しかける。と書くとまるで英語ぺらぺらのように思われるかもしれないが、ぜんぜん!ただのカタコト英語である。「where do you come from?」と訊くと
スコットランドからとの答え。ならばと「007いますよね、知ってますショーン・コネリー、ジェームズ・ボンド」言わずと知れたジェームズ・ボンドといえばショーン・コネリー、スコットランド人である。にっこり笑ってくれたし私たちが日本人だというのもわかってくれたが、返ってくる英語がむずかしい、ヒアリングの限界。さらにそれ以上ネタがなく話が続かない、カタコトの限界である。あと物静かな夫婦だったので無理におしゃべりに付き合わせても迷惑かなと思ってやがて諦めた。

そうこうするうちに終着駅。駅から数分歩くとゴルナーグラート展望台へ到着。

建物に入り、お土産売り場を通過、レストランからオープンカフェへ。

 

今日も快晴で気分がいい。気にいったカドっこの席をみつけて座る。背中にマッターホルンを背負うかたち。

振り返って見ると真っ青な空にマッターホルンの正面(っていうのか正三角形の面)がくっきりと浮かび上がっている、どこにも雲は掛かっていない。クラインマッターホルンほど真近ではないけど、いい距離感でいい角度。その周囲には名前は知らないけど多くの山々が遠くまで連なっている。

ただの観光客が電車に乗って終点で降りたら、本来は登山家しか見られないような雄大な眺望がお手軽に手に入るなんて…スイスの鉄道おそるべし!その代わりに乗ってる標高差を無視して距離や時間だけを考えると料金はすごく高いけど。
 

広いカフェテラスではくちばしの黄色いカラスが観光客が座っている各テーブルを自由気ままにぴょこぴょこ歩き回っている。まったく人見知りする様子もなく、ゴルナーグラートのアイドルといったところか。この展望台は山の上でポカポカと温かい陽射しが注ぐが、夏も終わりとはいえ冷たい風が吹きつける。ずっとこうしていたいが、手にしたコーヒーも冷めたし、だんだんと身体も冷えてくるので後ろ髪を引かれる思いでテーブルを後にする。
ちなみにゴルナーグラート展望台は建物自体がホテルになっているとのことで、次の機会があればぜひ泊まってアルプスの満天の星空を独り占めしたいものだ…とカミさんは言っている。
 

さて、クラインマッターホルンとゴルナーグラート展望台、どちらも素晴らしいが、もしスケジュール上どちらか一方しか行けないとしたら…私だったらゴルナーグラート展望台をオススメする。ツェルマットの街中から気軽に乗り換えなしで一本で行けるし、マッターホルンの容貌(かたち)がなじみのある姿だから、あぁマッターホルンだ!と思えるのがその理由だ。