あの日のことを詳しく思い出すのは苦しい、でも決して忘れてはいなくて胸の底にいつも居座っています。
数か月前に参加した分かち合いの会では、みなさんが当日の話をされていて、どうしてもお聴きするのがつらく、音量を最小にして過ごさせてもらったことがありました。
どうしてみなさん話せるんだろう、とあの時は感じました。まだ、自分の中でそういう時期ではなかったのだと今は思います。
先日からザワザワして、ブロ友さんにもきっかけを頂き、ここで少しだけ外に出させてください。苦しく感じる方はどうか、以降はスルーしてください。
あの日感じた二つの違和感のことです。
朝、出勤前、通信制なのでいつものようにまだベッドに居る娘に「行ってくるよ」と声を掛けに部屋に入ったとき、娘の周りに今まで見たことのない濃い影のようなものが見えたんです。ぎょっとしました。
わたしはその感覚を、前々日遊びに行った疲れのせいだと意味づけて飲み込みました。胸の奥では、ただごとではないと一瞬感じたのに、仕事が忙しい時期だったので理性で消し去りました。
「だいぶしんどそうやね、ゆっくり休みね」と言葉をかけて、ばたばたと仕事に向かってしまったのです。
あれが、娘の姿とのお別れでした。
お昼休み。職場でお弁当を食べ終わって、ウォーキングの前にいつものように娘に電話をしました。
「もしもし、だいじょうぶ? 起きれた? お昼これから?」
「うん、これから~。ゆうべのおいしいスープ残っとるけん、たべよっかな~」
朝感じた違和感を消し去ってくれるような、ほんわりとゆっくりと話す声、いつも以上になんともかわいらしい愛おしい声でした。
電話を切ってから、ひとりで「かわいいな~」とつぶやいてしまったほどでした。
あれが、娘の声とのお別れでした。
電話した時には、もうお別れの準備を整えていた娘。最後の食事になったスープのお鍋もお皿もきれいに洗われていました。
わたしは、繊細で心配症の娘とは正反対の、おおざっぱで基本楽天的な性質です。霊感のようなものが備わっているとも全く思えません。
そんなわたしが、あの日に、濃い影を見たり、いつになく愛おしく感じた。
なんであの時いつもと違うと強く感じたのに行動できなかったんだ、止められなかったんだ、と後悔はずっと続いています。思い出すのも怖く感じてきました。
ただ、だんだんと、わたしごときにどうにかできる出来事ではなかったんだ と思うようにもなってきています。
ブロ友さんに「後知恵バイアス」の言葉を教えてもらったり、人は不安を取り除くために「正常性バイアス」が働くものなんだと学びました。
そして、まだ治療の確立していない難しい病気に娘はかかってしまったのだということ。
それでも、やはり何とか娘と生きたかった、こんな悲しい思いは勘弁してほしい。
あきらめる理性と、抵抗する感情がせめぎあい、もがいています。
娘は手紙などは残していませんでした。スマホも開けることができません。
姿と声、二つのお別れを、わたしの胸にはっきりと刻み込んでくれたのは、口下手なあの子らしいメッセージだったのかもしれません。
今回、思い切って書き残してみて至った想いです。