長州ファイブがロンドンに密航留学した3年後の1866年日本は海外渡航を自由化した。そのため以降の日本人は官民問わず多くがイギリスに渡っている。

 

明治維新後の1872年には岩倉使節団の総勢107名がロンドンに到着。この中には長州ファイブの伊藤博文がおり、9年ぶりの再来となる。もしこの時に伊藤が思い出の地を巡っていたなら、かつての寄宿先であるウィリアムソン宅へ向かうだろうし、そうであればチョークファーム・ロードを通り、必然的にラウンドハウスを目にすることになるだろう。

 

この岩倉使節団は大所帯なので、誰かがカムデンを訪れラウンドハウスについて記録しているかもしれない。またこの使節団にはイギリスへの留学生5人(中江兆民、鍋島直大、百武兼行、前田利嗣、毛利元敏)が含まれるので、彼らの日記や書簡にラウンドハウスへの言及が期待できる。

 

とはいえそれらが出版されていなければ、私のような素人には探しようもない。そこで南方熊楠夏目漱石に注目した。

 

 

 

 

南方熊楠がやってきた

 

南方熊楠は1892年、25歳でロンドンに渡り、以後1900年までの約8年間、33歳まで暮らしている。しかし日本からいきなりロンドンに向かったわけではなく、アメリカで約6年学んだ後に渡英している。そもそも熊楠は大学予備門(現東京大学教養部)在学中の1885年、19歳の時に落第したのを期に中退し、翌1886年にアメリカに留学していた。

 

当時私費でイギリス留学できたのは、彼が裕福な家庭に生まれたからだ。しかしロンドン在学中に父と母が亡くなり、その後家業を継いだ弟から送金を打ち切られると生活できず、やむなく日本に帰国している。もし送金が続いていたならそのまま海外で暮らしたかもしれない。

 

ロンドン留学中には博物館に通って蔵書を読みふけり、あるいは学術誌に寄稿して過ごしていた。留学後期になると博物館で職を得ることもあったが、それは生活の糧になるほどのものではなく、もっぱら親のスネをかじって大好きな研究の放蕩三昧だったようだ。

 

熊楠がロンドンで暮らした家を調べてみると全4箇所で、最初の1年3ヶ月をのぞけば、すべてサウス・ケンジントン周辺に固まっている(図1)。彼が最も長く暮らしたのは、2番目のアールズコート付近の家で約5年。熊楠の日記にはハイドパークとケンジントンガーデン周辺の記述がとにかく多い。

 

(図1:南方熊楠が暮らした場所と同縮尺の東京の地図)

 

 

熊楠の日記の中にラウンドハウスについて探してみたが、結局見つからなかった。また寄宿先と訪問先の位置関係からラウンドハウスを経由しそうな記述も探したがほぼなかった。比較的近い場所としてはロンドン動物園があり10回以上訪れていた。また夜にハムステッド・ヒースの酒場で飲んでから帰宅した記述や、動物園の帰りに友人にプリムローズ・ヒルまで送ってもらったという記述がある(図2)

 

 

(図2:熊楠の日記にみるラウンドハウス周辺地図)

 

 

唯一可能性があとすれば、ロンドンへやってきたその日の記録である。その日熊楠は船でリバプールに到達してから、汽車に乗ってロンドンへ向かっているのだが、その際に使った鉄道がロンドン&ノースウェスタン鉄道だ。この路線は終点がロンドンのユーストン駅であり、その1つ前がチョーク・ファーム駅である。もしその駅での停車中に左側の窓を見れば、否が応でも直径50メートルの巨大円形建築、ラウンドハウスが目についただろう(図3)

 

 

(図3:熊楠のロンドン入り経路地図)

 

 

とはいえ熊楠の興味は植物学(あるいは動物学)にあり、鉄道や工業には関心がなかったようなので、たとえラウンドハウスを見たとしても特に感じ入るものはなかったかもしれない。

 

 

【参考資料】

 『南方熊楠日記 1 1885-1896』長谷川興蔵 校訂(八坂書房)

 『南方熊楠日記 2 1897‐1904』長谷川興蔵 校訂(八坂書房)

 

 

 

 

 

夏目漱石がやってきた


夏目漱石は先述の南方熊楠と共通点が多い。たとえば2人とも同じ1867年生まれ、しかも大学予備門の同窓生。また漱石も熊楠も猫を飼っていたし、両者とも鴨長明の『方丈記』の英訳を手がけている。また互いに大変な癇癪持ちで、大のスイーツ好き。そしてロンドン留学も入れ違いながらほぼ同時期だった。

 

その一方で正反対の面もある。たとえば熊楠は大酒飲みだが漱石は下戸。また熊楠は大学予備門を落第したいわゆる劣等生親のすねをかじって留学しているが、一方の漱石は大学予備門でほぼ全学科を首席で卒業し、英語教師となってから国費でロンドン留学している。

 

漱石がロンドンに留学したのは1900年、33歳の頃だ。漱石の留学は苦悶に満ちており熊楠のそれと正反対である。当初漱石が通ったのは長州ファイブと同じユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(※1)だが、なじめずに数ヶ月でやめて個人教授に教えを受けているが、それすら満足いくものではなかった。次第に日本人が英文学を学ぶことへの違和感、さらに孤独と劣等感から情緒不安定になる。最終的には半ば精神疾患に陥り、約2年弱で途中帰国となった。

 

漱石がロンドンで暮らした家を調べると全5箇所で、ロンドン市内に広範囲に散らばっている。特徴的なのは留学前半の2箇所がテムズ川の北側で、後半の3箇所が南側ということ。4番目に暮らした場所は特徴的で、当時のロンドン(カウンティ・オブ・ロンドン)とサリー州のほぼ境界にあるのだが、この場所は現在もインナーロンドンとアウターロンドンの境界(ワンズワースとマートンの境界)付近にあり、当時はロンドンに編入されてまだ間もない頃で、まるで僻地だった。

 

ちなみに最後の5番目の建物は現存しており、漱石が暮らしたことを示すブループラーク(詳しくは本ブログ第12回参照)が飾られている。かつてこの家の斜め向かいには「倫敦漱石記念館」があったが、2016年9月末に閉鎖となり、記念館はその後2019年5月にサリー州に移転している。

 

 

(図4:夏目漱石が暮らした場所と同縮尺の東京の地図)

 

 

肝心のラウンドハウスについては2番目の寄宿先が近く、そこはウエスト・ハムステッドにある。とはいえ漱石はこの家に1ヶ月ほどしか暮らしておらず、また彼が通った繁華街への道はアビー・ロード(ビートルズで有名)と考えられるので、ラウンドハウス近辺を通るようなことはなさそうだ。

 

漱石の日記を読むと、頻出する地名はサウス・ロンドンの各所、あるいはウエストエンド周辺がほとんどでカムデンは出てこない。それでもカムデン近辺の地名を探すと、なんとか以下の4箇所がみつかった(図5)

 

1900年11月23日:2番目の寄宿先の時にハムステッド・ヒースへ行く。

1901年4月19日:スイスコテッジに住む夫人を訪れる予定があったが断る。

1901年7月15日:下宿を探しレイトン・クレセントからブロンズベリーを歩く。

1901年10月14日:ウェスト・ハムステッドに知人を訪問

 

この中で多少なりとも可能性が高いのはで、この時漱石は下宿を探してこの近辺を歩き道に迷っている。もしかするとその際にチョークファーム・ロードに出たかもしれないし、そうであれば当時あのあたりで直径50メートルの円筒形建築物、ラウンドハウスは確実に目についただろう。

 

 

(図5:漱石の日記に登場するラウンドハウス周辺)

 

 

 

【参考資料】

 『漱石日記』平岡敏夫 編(岩波文庫)1990年

 『夏目漱石と倫敦留学』(吾妻書房)1990年

 『夏目漱石とロンドンを歩く』出口保夫(PHP文庫)1993年

 『漱石のロンドン風景』(中公文庫)1995年

 『漱石と英国』(彩流社)1999年

 『自転車に乗る漱石』(朝日選書)2001年

 

 

(※1)南方熊楠の日記にもユニバーシティ・カレッジ・ロンドンへ行ったという記述がいくつかある

 

 

 

 

 

【おまけ:熊楠と漱石の往路と復路】

 

熊楠の往路はアメリカからのため、最初に到達したのはリバプールで、下船後はロンドン&ノースウェスタン鉄道で南下し、終点のユーストン駅でロンドンに達した。

 

一方の漱石の往路はフランスからだが、具体的にイギリスのどこに到達したかは定かではない。有力とされるのはニューヘブン説のようだ。この場合、下船後にロンドン・ブライトン&サウスコースト鉄道に乗って、ロンドン入りしビクトリア駅に達したことになる。別の説としてはドーバーに上陸した後に、ロンドン・チャタム&ドーバー鉄道でロンドン入り、チャリングクロス駅で下車したとするものがある(図6)

 

 

(図6:熊楠と漱石のロンドン入りの経路)

 

 

帰国に関しては、熊楠も漱石もロンドンのテムズ川のドックランドにある、ロイヤル・アルバート・ドック(※2)から出発している。熊楠の方は日本郵船の阿波丸に乗船、一方の漱石は日本郵船の博多丸に乗船し、両者ともに神戸で降りている。日本の地を踏むまでの日数は、熊楠が45日(9月1日〜10月15日)漱石は47日(12月5日〜1月20日)、当時イギリスへは船と鉄道でそれほどの日数がかかった。

 

先述のように、熊楠と漱石はロンドン留学も比較的同時期なのだが、熊楠の帰国と漱石の留学はちょうど時期が重なる。熊楠はロンドンから日本に向けて1900年9月1日に出発、一方の漱石は日本(横浜)からロンドンに向けて1900年9月8日に出発し、両者の船は1900年9月27〜28日にインド洋上ですれ違っている

 

 

(※2)現在のガリオンズ・ポイント・マリーナで、ロンドン・シティ空港の北に隣接する