山口女子大学(山口市)に、1978年に開設された寺内文庫がある。寺内とは、第3代韓国統監、初代朝鮮総督を務めた寺内正毅である。山口出身で、第18代内閣総理大臣でもあった。
寺内は軍人であり、政治家であるが、韓国統監、朝鮮総督の職務をこなしながら、朝鮮の書や古文書を収集した。その数、1万8000点といわれる。
そのような蒐集癖は、個人的な興味・関心から、しっかり代金を払って購入した場合と、第三者に依頼して略奪したケースもあり得る。もちろん、本人自らが権威をかさにして、略奪することを考えられる。寺内が、どのようにして蒐集したか、知りたくもなる。
1996年1月24日、寺内文庫から135点が、韓国・慶尚南道の慶南大学に送り出された。事前に、韓国の研究者が選別した朝鮮王朝時代の『朝鮮名家真筆』をはじめ、古文書は段ボール11箱に収められた。
これを報じた翌25日付の読売新聞には、韓国に初めて贈られた寺内文庫の古文書に、「娘を嫁に出す父親の心境」と同大関係者の話が載っていた。寺内コレクションの性格を知らないので、とやかく言えないが、もし略奪品がその中にあるとすれば、本来戻るべき元の場所に戻ったともいえる。車に段ボールを運ぶ姿を写した写真には、「約100年ぶりに故国に戻る古文書」というキャプションが打ってあった。
山口出身で、元総理であり、朝鮮統治でも名をあげた寺内正毅について、山口女子大学で批判的に見る人は皆無なのであろうか。彼の経歴を見れば、世間的には尊敬の目で見られる、雲の上の存在である。
司馬遼太郎は、『坂の上の雲』のあとがきに、次のような寺内の人物評を書いている。
「寺内陸相は日露戦争前後の陸軍のオーナーでありながら、陸軍のためになにひとつ創造的な仕事をしなかった」
「かれを賞めるために書かれた『元帥寺内伯爵伝』(大正9年発行・元帥寺内伯爵伝記編纂所刊)ですら、やくなく、『伯は創設的の人というよりも寧ろ整理的の人であった』と、須永武義(陸俱中将)のことばをかかげている」
人には長所があれば短所もある。その短所ばかりをあげつらうのは、どうかとは思うが、長州人であるがために栄進できる長州閥人事に乗った象徴的な人物が寺内正毅であるといえそうである。
寺内正毅は大正5年、元帥府に列せられた。これが、いかに重いものか。「元帥とは陸海軍大将のうち『老巧卓抜なる者』がその府に列せられ、終身現役になる」ことと、司馬遼太郎の『坂の上の雲』あとがきにはある。寺内が元帥府に列せられたことについて、司馬はこう補足説明している。
「寺内正毅の元帥というのは明治国家の能力主義の一表現としてみるべきではなく、明治国家の頂点のある部分を占めていた陸軍長州閥の裏面政治の果実としてみたほうがよい」
長州閥にあって、寺内は幸運の男であった。そんな印象をもつ。