大韓帝国の後、日本の植民地統治が1910年から始まる。韓国併合である。それから17年後、東京に留学する女学生2人が京釜線の列車に乗って、京城から釜山へ。釜山からは関釜連絡船に乗船して下関へ到着した。京城から東京まで、2週間もかかる時代あった。
下関に到着後、朝鮮の女学生2人は列車に乗り換え、山陽線、東海道線に乗って目的地の東京へ向かった。二人は疲れていたが、日本に上陸できたことで、気持が楽になった。
大きな荷物を持って列車に乗り込む人がホームに列をなしていた。列車が滑り込むと、乗客は次々と吸い込まれるようにホームから姿を消した。
朝鮮の女学生は車両の中央辺りに席を確保した。中央通路をはさみ、左右に4人掛けの席である。先客が一人いた。同年配の女性と思われた。「ここ空いていますか」と朝鮮の女学生が尋ねると、その女性は「ええ、どうぞ」と快く応じた。
列車が動き始めて、間もなくお互いの自己紹介があった。20歳そこそこの女性は旧熊本藩の士族の娘で、大塚八重といった。親戚を頼り東京の英語学舎に入るため、上京する途上だった。
朝鮮の女学生は、「半島の京城から東京へ留学します」と簡単な自己紹介をした。
「熊本といっても、あなたたち知らないでしょうから、少し話しましょう」と八重はいうと、次のような話をした。
「熊本藩は西南雄藩のなかでも、いち早くキリスト教に興味を示し、熊本洋学校を開設して、日本の近代化の先駆けになろうと努めた藩です。洋学校から、キリスト教に基づき世直しを目指す『熊本バンド』も生まれました。私は、女性ながら進歩的な考えを持つ父親の薦めで、東京の英語は学校で学ことになりました。」
京城から東京へ留学する朝鮮の女学生が興味を示した熊本の八重は「朝鮮の京城からでしたね。お二人の留学。優秀だから出来ることね」と大塚八重が感心しながら言った。
東京まで車中4泊の旅。長い時間、同席する関係からか、親しい間柄となっていった。
その間、八重は熊本と朝鮮を繋ぐ秘話を聞かせてくれた。
熊本は、韓国と縁の深い。繋がりは、秀吉の朝鮮侵略で勇名をはせた武将・加藤清正、熊本出身者が多くかかわった閔妃暗殺、それに伊藤博文を射殺して裁かれた安重根の通訳を務めた熊本県派遣朝鮮語学生出身者の園木末喜などが挙げられる、いうのである。
園木末喜は、獄中の安重根の通訳を務めました。園木は、菊池郡加茂川村砂田(現在、七城町)出身。安重根が逮捕されて処刑されるまでの5カ月間、通訳を務めました。安重根は園木に「日韓交誼善作紹介」と揮毫した書を贈っています。処刑される前月のことです。園木は、これを郷里に持ち帰り、大事に保管されていたようです。
園木は、1896年から熊本県が始めた漢城派遣の朝鮮語学生の一人です。熊本県は、明治維新で出遅れたのを取り戻そうと、朝鮮進出に力を入れました。その一環として、県派遣朝鮮語学生という制度をつくったのです。この制度は1904年に終わりますが、それまで合計5期31人を派遣しています。派遣方針として、語学生は朝鮮で就職することが義務付けられていました。
その流れで、園木は韓国統監府通訳生となり、旅順監獄で安重根の通訳官を務めました。
旅順監獄で、安重根と看守としてかかわった千葉十七がいます。安重根思想に共鳴し て、帰国後、大林寺(宮城県栗原市)で供養を続けました。処刑の直前、安重根は「為国貢献軍人本分」という一筆を描き、千葉に贈ったといいます。
死刑執行には、検察官、典獄、弁護士とともに通訳官の園木も立ち会っています。
園木が、安重根からもらった書、「日韓交誼善作紹介」の意味するところは、日韓の親善のためにはよく知り合うことである、となる。安重根と接した園木、千葉十七が彼の人柄、思想に共鳴した要因が、この言葉からも伝わってきます。