「全」という全羅道の精神とは、「すべて」に通じ、円満でかけるところがなく、すべてのものは一つにまとまる、という意味をもつ。その一人パンソリの申在孝を紹介したが、もう一人、新聞社「東亜日報」を創立したジャーナリストの金性洙(キムソンス)がいる。名門・高麗大学の創立者でもある。

 

 万石取りの大地主である富豪な家に生まれながら、蓄財をよしとせず、金性洙は父親と養父を説得して、中央学校を設立している。日本統治下の植民地時代の話である。若者たちに民族教育の場を与えた。さらには、京城紡績株式会社設立に際しては、「全民族の会社」に発展させたいと願い、一人一株を目標に、全国各地を歩いて株主を募ったという。

 本人は意識したかどうか知らないが、彼は「全」の精神の体現者である。

 

 「社会の木鐸」といわれる新聞は、否応なく政治ににらみをきかす。新聞社の社主でいながら、政党もつくって国政にもかかわっている。ただし、金性洙は権力や地位にこだわらない人で、社主や党首の地位を他人に譲り、一歩も二歩も身を退く、潔い姿勢を貫いている。

 

 1948年、大統領に李承晩(イスンマン)を据えた大韓民国政府が樹立される。その際、彼は副大統領に就くが、李承晩の独裁政治に嫌気がさしたのであろう、堂々たる抗議文を主張して、副大統領の椅子を投げ出している。

  金性洙をどう評価するか。彼には人望があった。会社を興したり、政党を立ち上げた際には、多くに人が彼のもとに馳せ参じている。彼が亡くなった折には、李承晩大統領が弔問に訪れている。

 

 権力が地位にこだわらなかった金性洙が、残したものは何か、と不図かんがえてみる。彼が親日派の烙印を押され、反民族主義者と認定されている(2005年、民族問題研究所)ことを不思議に思う。2017年、金性洙の曽孫が提訴した裁判でも、親日行為が認定されているという。

  

 全羅道は両班と常民の、身分上の差別が殊に強いところであった。高麗を建国した王建(ワンゴン)が遺言「訓要十城乾」のなかに、全羅道の民を役人にするな、と言い残している。統一時に後百済の地である全羅道を制圧するのに命を奪われるほどの、過酷な目に遭遇したことから、そのような遺言の一条を残した。

 

 穀倉地帯である全羅道の民衆は、中央から派遣される役人に搾取され、圧制に苦しめられた。それを跳ね返すのは「全」の精神が求められた。

 朝鮮王朝末期、甲午農民戦争(東学党の乱)に集まったのは、全羅道の民衆である。身分を超えて団結し、国政変革に立ち上がった背景にも、「全」の精神があったといえる。