いま、福岡市のKBCシネマで『金子文子』が上映中である。監督トークショーもあり、これに参加した友人は「よかったです。入場者も満員でした」と感想を伝えてくれた。 私も観たいと思っている。アナキストの金子文子は、朝鮮独立運動をする朴烈(パクヨル)の思想に惹かれ、結婚した。二人のことを思い出すのが、聞慶(ムンギョン)である。それは2023年4月、朝鮮通信使ウオークと重なる。振り返ってみたい。
北海道・札幌市と東京都練馬区、愛知県名古屋市から在日コリアンが朝鮮通信使ウオークに参加していた。皆、ソウルから東莱まで歩くのは初めてで、ましてやその間、550キロを踏破するのも初めてだった。
道中、3人からいろんな話を聞いた。とくに名古屋市在住者は若い頃、ソウルと光州に語学留学した経験があり、居住地の名古屋では韓国語の学習テキストを販売する取次店を行い、語学教室も主宰する方で、祖国・韓国に詳しかった。
札幌と東京の在日コリアンは兄弟で、兄(練馬区在住)は『在日二世の記憶』(集英社新書)のなかに半生記が紹介されるほど、商工人として注目される人物だった。
その日のゴール地点である聞慶に到着する前に、聞慶郊外にある朴烈(パクヨル)記念館を訪ねようと、道中話し合った。到着前、通信使ウオークの会長に承諾を得て、隊列を離れた。朴烈が在日本大韓民国民団の初代団長だったことが、足を向けさせる誘引力となった。
市役所の面事務所で、車を読んでもらい、記念に向かった。記念館までは遠い。25分は走ったであろう。着いて、記念館のスケールに驚いた。
後で、この建設には魂が籠っていたことを知った。同館パンフレットに、こう書かれている。
「朴烈義士記念館事業会は聞慶出身の独立運動家朴烈義士を祈念する為に2001年に発足した。当時「新羅梧陵墓保存会」聞慶応支部の朴仁遠会長は、朴烈義士が、祖国独立の為に輝かしい功績を建てたにもかかわらず、その功績がますます忘れられている現実を嘆いて、記念事業会を結成、記念公園と記念館建立を推進し始めた。」
2010年10月9日に開館した記念館は敷地面積4373坪、総合建築面積は485坪。
記念館は3階建ての近代的なビルである。正面の壁面には「朴烈義士記念館」と大書されている。ビルの左側に広がる芝には、朴烈と獄中結婚した金子文子の墓標と墓があった。日本から移設されたのであおる。アナキストの彼女は、朝鮮独立運動をする朴烈の思想に惹かれ、結婚した。
展示室には、朴烈と金子文子との出会い、天皇爆殺計画で検挙された後、「アナキズムと民族主義思想が混在して現れる裁判場での闘い」(同館解説書より)を照射している。
朴烈は、どのような人物だったのか。
「18歳の時、一人で東京に渡って、黒濤会、黒友会等の抗日団体を率いて来た朴烈は1923年9月の関東大震災の当時、朝鮮人虐殺が恣行(しこう)される混乱の渦中、日本の天皇を爆殺しようとした嫌疑で拘束された。云わば「大逆事件」で、彼は1945年10月27日、秋田刑務所から釈放されるまで22年2ケ月という世界最長の獄中生活を強いられた。」(同館パンフレットより)
1,2階が展示場で、映像室も設置している。映画『金子文子と朴烈』(2017年製作)も上映されているのであろう。展示されて史料は数多く、解説ボランティアの説明を聞きながら全部見ようとすれば、1時間以上はかかるのでは。それほど、展示物は充実していた。
「独立運動家の金九、伊藤博文を銃撃した安重根にも負けないほどの記念館だね」とは、在日コリアンの感想である。
朴烈は帰国後、朝鮮戦争で捕虜となって北朝鮮に連行され、のちに処刑されたといわれいる。一方、金子文子は死刑から、後に恩赦で無期懲役になったものの、宇都宮刑務所栃木支所に移送され、そこで獄死している。
朴烈と金子文子は、思想に生き、思想に死んだともいえる。