かつて、と言った方がいいのだろう。ソウルにある王宮・景福宮の裏門近い場所に、「明成皇后殉国崇墓碑」が立っていた。この墓碑の文字は、反日で有名だった初代大統領・李承晩(イスンマン)の筆である。その奥には「明成皇后遭難の地」と書かれた碑もあったという。

 

 これは、1994年に発行された小林慶二著『観光コースでない韓国』(高文研)に出てくる。小林氏は1881年末から85年末まで、朝日新聞のソウル支局長を務めている。そのときに、取材したのであろうか。

「碑の右手に、日本人暴徒に斬られ、血塗れになった閔妃の姿と、暴徒により庭で焼かれる閔妃の遺体を描いた絵が二枚掲げてある」(同書より)

 

 景福宮に何度か行ったが、そのような場所に案内されたことがない。小林氏も「ここには日本人観光客はほとんど来ないという。案内人も日本人には遠慮して碑のあることを教えないことが多いからだ」と言っている。

 

 暴徒は閔妃の顔も知らなかった。乾清宮の坤寧閣と玉壺楼で、宮女ら3人が殺されたが、そのなかの一人が閔妃であることが確認された。その後、暴徒は閔妃の遺体を、近くの鹿山で焼いている。

 

 この間の経過が、朝鮮王朝実録に次のように描かれている。

「1895年10月8日午前7時、日本軍人と政治浪人たちが興奮大院君を先頭に景福宮を襲撃、閔妃を殺害した後、政権を奪取した。閔后を殺した日本人たちは彼女の遺体を焼却するなど蛮行をほしいままにした。そして、高宗に閔后を廃位させて、庶人に降等させるように強要した」

 

 このとき、日本政府は閔妃の死をどのように説明したのだろうか。

 実録は、その後、どういうことが起こったか、について次のように記している。

「しかし、その年の10月10日、彼女を王后に復位させる詔書が下され、国葬で粛陵へ安置された」

 

 国母である閔后の死について、箝口令が敷かれたのであろう。国母を見送る民衆が暴徒化することはなかった。

「そして、1897年には明成王后に追封され、11月には楊州天蔵山のふもとに移され、洪陵と名付けられた。1919年、高宗が死去すると、2月には南楊州市金谷洞(京畿道)に再び移され、高宗と合葬された。子供は純宗一人だった」