昌徳宮に戻った興宣大院君は閔妃(明成皇后)を捕え、処刑するため、宮中を探し回った。しかし、彼女は命からがら城外に脱出。漢江を渡って、長湖院(チャンホウォン)の閔応植(ミンウンシク)の邸宅まで避難した。

 漢江では、大院君が閔妃の逃亡を防ぐために、女性を舟に乗せることを禁じていたが、閔妃は船頭に金の指輪を渡して買収していた。

 これが1882年(高宗19)の「壬午(イムオ)軍乱」である。

    

※閔升鎬(ミンスンホ)殺人事件=ドラマ「明成皇后」に描かれている事件。閔升鎬は大院君の妻の実弟で、明成皇后の義理の兄であり、当時、驪興(ヨフン)閔氏最大の実力者だった人物。その閔升鎬が自宅に届けられた箱を開けたところ、爆発して息子や母親とともに死亡した実際の事件で、史実には「誰から送られたものかわからなかった」と記されているが、大院君が送ったという説もある。

 

 大院君は賭けに勝ち、7年ぶりに権力を握ったかのように見えた。しかし、閔妃が権謀術数は凄まじく、中国・清に訴え出たため、大院君は清によって拘束され、天津に拉致された。

 

 朝鮮王朝は創建された時より独立性がなく、歴代の王と王族は中国皇帝の家臣たちの支配下にあった。李鴻章の腹心である袁世凱の命令に対して、高宗が一言の異議をはさむことなく、実父が天津に強制連行されるのを認めたことは、清の朝鮮に対する宗主権と冊封秩序が、いささかも揺らいでいなかったことを示している。

 

 清にとっては、「江華島条約」として知られる「韓日丙子修好条約」によって、日本に機制を制されていたが、「壬午軍乱」の勃発は、勢力を挽回する絶好の機会を提供した。

 清国軍の支持で、朝鮮王朝の参判がこの軍乱を調査した結果、軍人たちの不満に便乗して、大院君が煽動して起こった事変だと断定し、直ちに清国軍に武力介入を要請した。

 

 閔妃が再び政権を握った。彼女は日本を捨てて、今度はロシアと手を結んだ。強く見える側についただけのことだ。閔妃は後に1895年に「乙未(ウルミ)事変」によって、日本の浪人に殺されるが、主犯の三浦梧楼(長州閥)のほかに、大院君が謀議に加わっていたという説もある。

 

 1884年、開化派である独立党が日本の支援を得て、クーデターを起こした。「甲申(カプシン)政変」である。独立党は、高宗に弊政改革を図ることを強いた。高宗は宗室、百官などを引率して宗廟に参拝し、改革の推進を誓った上で、これを宣布した。

 そして、李成桂が自主独立国家であった高麗を滅ぼして中国に隷属して以来、使われなかった「朕」「陛下」「詔」「太子」などの皇室用語を初めて使用することによって、清国の宗主権を否認した。華夷秩序のもとでは、中国だけに皇室があったため、この朝鮮の改革は画期的なことだった。

 こうして、1392年の朝鮮王朝建国以来、明と清に隷属した国、朝鮮王朝は492年後に、初めて自主独立体制を確立した。