朝鮮王朝建国の歴史を描いた『太宗 イバンウォン』(BS東テレ)を見ていて、始祖・太祖(テジョ、李成桂=イソンゲ)の愚かさを度々思う。高麗を滅ぼした後、李成桂は紆余曲折を経て朝鮮王朝を建国し、初代国王になるが、そのとき建国第一等功臣である李芳遠(イバンウォン)をなぜ、世子にしなかったのか。それが不思議であった。

 李成桂の命を2度救い、建国の大きな障害となっていた鄭夢周(チョンモンジュ)を殺害して払いのけた。これがあって、高麗王朝存続のため殺害の標的になっていた李成桂は生き残り、新王朝建国にこぎつけた。

 

 それなのに、国王に就くと、二番目の夫人で後妃の神徳王后・康氏の間に2人の子がいたが、その次男・芳碩(バンソク)を世子に就けた。太祖には最初の夫人で正妃の神懿王后・韓氏の間に李芳遠をはじめ6人の子がいたが、それを全て排除した。これが原因となり、熾烈な内紛が生じる。

 高麗王朝を倒すに当たって韓氏の子が戦功をたてたが、なぜ彼らは冷遇されたのか。

 

 これは康氏は入れ知恵である。彼女は賢い、智謀の女性であったことが災いの元となった。

 康氏は「太祖の奪権闘争に参加するばかりでなく、朝鮮開国の後にも背後で強い影響力を発揮」したと、朝鮮王朝実録に記されている。

 さらに、太祖の指南役として絶大の信頼を得ていた鄭道伝(チョンドジョン)も康氏の側につき、芳遠を過剰なまでに警戒し、冷遇した。

 

 最初の正妃・韓氏の6人の子は、康氏の智謀と鄭道伝に屈したことになる。

 しかし、新王朝は康氏の思惑通りに進まなかった。殺害しなければ災いをもたらすと憂慮していた李芳遠が、先手を打ったからである。

 初めから太祖が建国第一等功臣の李芳遠を重用していれば、朝鮮王朝は順調に歴史を刻んだはずではなかろうか。それを太祖は、後妃の康氏の情にほだされたため、建国当初から血腥い殺戮の争いに巻き込まれてしまう。

 自業自得というしかない。

 

 韓国では、家出して再び帰らない人を指して、「咸興差使(ハムフンチャサ)」というそうである。今日でも使われている言葉であると聞いている。

 骨肉の争いに嫌気をさして、北方の咸興に去った太祖を都に呼び戻そうと、李芳遠は勅使にあたる差使(チャサ)を度々派遣した。太祖はこれを拒んで、差使を切り捨てた。

「咸興差使」の熟語の由来は、朝鮮王朝建国にまでさかのぼる。

 

 ドラマ『太宗 イバンウォン』はまだまだ続くが、王妃・康氏の姿を見るのは、しんどい。王妃に就いて4年後に、病を患って亡くなるが、番組から早く姿が消えるのを待ち望む気持ちである。どうも、私は李芳遠を支持する側にいるようである。