「平戸島の西端迄行きました。小麦さまのお墓にお参りしました」。一昨日、唐津(佐賀県)の友人から、このようなメールが届いた。

 小麦様とは、朝鮮の女性である。なぜ、平戸に? それは秀吉の朝鮮侵略の折、平戸藩主の松浦鎮信が全羅道の戦いで、小麦畑に潜んでいた女性を見つけ連行し、平戸に連れ帰ったからである。鎮信は、彼女を側室にするほど大事にした。

 

 かつて、福岡から平戸を訪ねる日帰りの旅をした。平戸は、司馬遼太郎の『街道をゆく11 肥前の諸街道』(朝日文庫)にも出てくる。ただ、私が知りたい朝鮮関係の記述は、ほとんどなかった。この本は、もっぱら欧州と中国と兵学などに終始している。人物でいえば、松浦氏はもとより、王直、三浦按針、吉田松陰などの話に終始した感がある。朝鮮は希薄であった。

 

  平戸は、島である。本土側の田平から、赤塗りの大きな吊り橋(665m)を通って渡る。あっという間である。橋が架かる昭和52年(1977)以前は、渡船で狭い海を越えていた。橋を渡る前から、平戸城の雄姿が目に入る。海のそばにそそり立つ城の景色は、何とも印象的である。車のハンドルを手にする、福岡に住む韓国人も、「美しいですね」と歓声をあげる。「平戸は豊かな島よ」と、わが町といわんばかりに自慢する友人はキャンプでたびたび、平戸に来ている。しかし、意外なことに平戸市街地をほとんど歩いていない。美しい自然と新鮮な魚介類の恩恵にあずかるだけである。

 

 橋を渡り、数分で平戸市街地に入る。離島行きの渡船が発着する港に着くと、観光案内所で地図をもらった。広げた一枚の紙。その表裏に、びっしり観光名所が記されている。「小麦様の墓はどこにありますか」「根獅子(ねしこ)というところ」「ここから車で40分ほどかかります」「何か資料ありますか」「平戸検定本に説明がありましてね」と係りの女性は本を見せてくれた。

 

 福岡都市圏から平戸まで、約3時間30分。日帰りで来ているので、平戸を見て歩く時間はかぎられる。根獅子まで行こうかどうか迷う。結局、そこまで行かずに平戸市街地で旅の目的は成就する。

 というのは、歴史を感じさせる、風情のある街並みを通り、藩主松浦氏の居宅を生かした松浦史料博物館を訪ねたところ、同館の学芸員から、小麦様の宝篋印塔(ほうきょういんとう、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種)、遥拝所、さらには高麗町の存在を教えてもらったからである。

 

  平戸市街地は、歩いて楽しめるまちである。時間がない関係で、車に乗り3カ所を探訪した。探訪という言葉がピタリと来る。探しあぐねて、道行く人に尋ねても、その存在を知らないのである。

 市街地の山の手にあった遥拝所。正式名称は「伝小麦様遥拝所」(出家後は「清岳麦妙芳禅定尼」と呼ばれている)。由来を刻んだ石碑を読んで、小麦様が「女官」「松浦家の重臣となる子ども生まれています」ということを知る。墓は、最教寺と根獅子まちにあるとも記している。

 

 この後、最教寺に行き、松浦鎮信の墓に背後にある、小麦様の宝篋印塔を見た。そこまでの道は、最教寺の境内を走る道が、韓国のオルレに指定されていることに驚いた。平戸を訪れた韓国人観光客が歩く道ながら、400余年前に平戸に連行され、藩主の側室になり、子どもも産み、ここで生涯を終えた韓国人女性がいたことを、特殊な歴史探訪をする方々を除き、多くの韓国人観光客は知らないであろう。というのも、「法印鎮信の墓」と記した案内板に、小麦様の説明がないからである。

 

 学芸員が話してくれた高麗町の朝鮮人の墓。これを探すのが一苦労だった。車を停める場所をやっと探し、小さな道を上るが、初めは行先を間違え、2回目は行き過ぎてしまい、道を尋ねた家に声を掛けると、飼い犬数匹が吠え立てる始末。挙句の果てに「お尋ねの道、全然検討がつきません」といわれてしまった。帰路、もう一度地図を確認して、人家の表札を見ると、何とその周辺にあるのである。

 

 数件かたまっている人家のわきに、繁みに覆われる感じで、石塔「高麗碑」が立っている。横幅2m、縦80㎝、高さ50㎝ぐらいの基壇の上に、「高麗碑」と記した横長の石碑が立っている。その裏には、大きな石が散乱していた。

 石碑は「平成六年四月吉日建立」された。「発起人 景泉謹書」も文字もある。石碑は「三川内焼陶祖之慰霊」碑である。次のような、説明書きが記されている。長い文である。冒頭のところを紹介したい。

 

「1598年(慶長3年)平戸藩主松浦鎮信公が朝鮮出兵の際 熊川(鎮海市)より陶工巨関(こせき)ら一行100余名を連れ帰り此の地高麗町に帰化居住させ中野山中町紙漉を適地として開窯し陶器類の製作に従事させ白磁の焼成を試みた。これ即ち中野窯であり平戸三川内焼の端緒をなした」


 これを見て、いま立っている辺り一帯で、かつて陶磁器(白磁)が作りだされていたことを知り、動けなくなってしまった。当時の光景が、走馬燈のように駆けめぐったからである。車を離れ、ここを探そうと踏みこんだ真っ先に、「高麗町公民館」という平屋の建物に出会っていた。高麗とは、まさに朝鮮の別称である。


 平戸。離島でありながら、経済的に豊かな島である。松浦氏は、海外交易に熱心な藩主。かつては倭寇として朝鮮や中国で恐れられた倭寇の巨魁でもあった。松浦党である。貿易王として、経済的な繁栄を得るために、中国の海商・王直を薩摩・坊津から誘致し、それに成功している。市街地の地図に、王直屋敷・天門寺跡がある。松浦氏は、王直に豪邸を与え、優遇策をとったはずである。

 中国人として、鄭成功(日本名は福松)という大物も、平戸から出た。鄭芝龍と日本人妻・田川マツとの間に生まれた軍人であり、政治家である。台湾を拠点に「抗清復明」運動を展開した。

 

 松浦史料博物館は、もともとは松浦氏の居宅。城壁のような造りである。市街地を見下ろす高台にあり、敷地も広い。陳列された松浦家の所蔵品を見て、財力を感じた。調度品、輿、陶器、屏風絵、雛人形、絢爛な衣装、舶来品…次々と現れる豪華な品々に、思わずうなってしまった。なかには、平戸から江戸までの参勤交代で行く道中を描いた絵地図まで描かせている。

 平戸城を訪ね、中山愛子像を見た。彼女は、明治天皇の生母・中山慶子の母。藩主・松浦清(静山)の11女にあたる。松浦家は、天皇家ともつながっていた。