朝鮮には農業の実用理論書として評価が高い鄭招(チョン・ジョ、?~1434)の「農事直説」があり、その序文にも「風土が違えば、農事法も変えなければならない」と記していた。もちろんのこと、サツマイモを移植できる技術的な素地は十分にあったのである。同書は栽培に重点を置いていた点に特徴がある。

「穀物栽培に必要な水利、気象、地勢などの環境を詳細に記述し、農民がどんな環境でどんな穀物を栽培すれば有利かを分かるようにした」=朴永圭「朝鮮王朝実録」尹淑姫・神田聡訳、新潮社、1997年)

 

 このような朝鮮農業を支える農書をもとに、朝鮮では世宗時代の安定した治世が実現し、重農主義が発達していく。この鄭招の農書がいかに優れていたかは、同書が日本にも伝わり、熱心に読まれたことである。

 朝鮮でも飢饉があった。朝鮮王朝時代後期、「3・6年に1回ずつ比較的規模の大きい飢餓が発生していた」(姜萬吉「韓国近代史」小川晴久訳)。

 サツマイモがこの飢饉を救ったのはいうまでもない。優れた救荒作物として栽培法や品種改良が進む、朝鮮半島でも「コグマ」の名で親しまれていた。

 

「孝行芋」という呼称は、すでにサツマイモが中国に伝来したとき、すでにそう呼ばれていた。陶山訥庵自らが「甘薯説」で「昔、貧者の孝子が山に行った時に芋を見つけ、掘って帰って植えて広めたので、天子より孝子に賜った福であるとして“孝行芋 ”と名がつけらえた、という。サツマイモは中国で栽培種が発見されたもので、孝行芋という名前も中国起源ということである」=佐々木道雄「サツマイモとジャガイモ―飢餓と豊饒の歴史―」(むくげの会編新コリア百科」所載、明石書店、2001年)

 

 サツマイモは中国に16世紀末、ルソン経由で入り、17世紀初頭には琉球、日本本土に伝わる。サツマイモは朝鮮には、これまで述べたように18世紀半ばに朝鮮通信使によってもたらされた。

 

 朝鮮王朝は中国・清に1637年から毎年、外交使節「燕行使」派遣して、文化的、経済的な恩恵に浴していた。しかしながらサツマイモは中国からは導入されず、日本、それも対馬を通して移植された。この顛末には、意外な話が隠されていた。

 中国の農書「農政全書」でサツマイモの存在を知った李匡呂(イ・カンニョ)が燕行使にサツマイモを持ち帰るように幾度となく頼んだが適えられなかった。そこで朝鮮通信使の一行に平身低頭して依頼したという。

 

 この話は、佐々木道雄氏の「サツマイモとジャガイモ―飢餓と豊饒の歴史―」に書かれている。これから分かるように、趙曮は李匡呂の熱心な依頼に応え、朝鮮にサツマイモを持ち帰った人物だったわけである。