渋沢栄一の孫・敬三が民俗学に造詣が深く、栄一の意向を受けて実業界に入っても、東京都港区三田の自宅にアチック・ミューゼアムを組織し、各地から有望な人材をみつけてスカウトし、調査・研究に励んでもらった。

 その敬三の提唱で始まった八学会連合調査は1950(昭和25)、対馬から始まった。

 

 1950年といえば、朝鮮戦争が勃発し、北朝鮮軍に押された韓国軍はジリジリと半島南部へと後退していた。対馬にも、艦砲射撃の砲声が聞こえていた。その中を調査団は対馬各地を訪ね歩いた。

 調査員は研究者である。民族学、民俗学、人類学、社会学、地理学、言語学、宗教学、考古学の8学会が連携して、学際的な調査・研究に汗を流した。連合調査が掲げる一つの方向に力を合わせる。そこで培われる人間的・学問的な成長に、会長の敬三は期待したようである。

 

 しかし、国境の島・対馬は朝鮮半島に近く、50キロしか離れていない。艦砲射撃の砲声が聞こえてくる不気味さである。

 調査員には、朝鮮戦争の戦火が日本にも影響を与える、戦火を逃れて対馬に避難してくる韓国人が出てくる、といった不安はなかったのか。

 

 そのような話よりも、与えられた八学会連合調査の任務にひたすら没頭する姿しか見られない。

 民俗学の分野で調査員に加わった宮本常一の姿は、地理学班の研究者に強い印象を与えた。

「結核がまだ完全に治りきっていなかったんでしょう。宮本さんは結核治療薬のパスをのみながら、夜の十時、十一時まで村々を回って聞きとりしている。そのまま宿にも帰らず、朝鮮戦争の艦砲射撃の砲声が聞こえるなかを、懐中電灯一本もっただけで夜の山越えに出かける。死と向きあいながら調査する姿には、本当に圧倒されました」

 宮本は別な次元で、死と向き合いながら調査に没頭していた。

 

 このとき、対馬の島民は、どんな心情を抱いていたかが気になるところである。

 朝鮮戦争に関する情報は、ラジオに頼るかない(1925年放送開始)。テレビは1953年2月から本放送開始となるから、まだ映像が見られる時代ではなかった。

 1950年、対馬はラジオ電波が届いていたのか。ラジオで朝鮮戦争の戦況がつかめなかったら、不安が増幅されるはずである。艦砲射撃の砲声が聞こえてくるのだから。

 この八学会連合調査は途中、中止されることもなく続けられた。異常な調査行だったいう印象をもつ。